一、同く問て云、右肥後の国主(守)を被仰付候に於ては、あなかち細川殿斗に限りたる義にては有之間敷く処に、越中守斗を指詰(かきる)の様に
取沙汰仕りたるは何とそ子細在之候哉。
答て云、其義を我等承り伝へ候は、越中守殿義其節迄は豊前の国小倉の城主(三十七万石)ニ而御入候処に或年領分大日てりにて百姓共当分の食
物にも難儀致し、況や来作の夫食等の心当は少も無之とある義を役人共相達し候へは、越中守殿殊之外苦労に被存候へ共、只大かたの義にては事
済不申候付、親父幽齋(藤孝)以来相伝りたる名物の茶入を近習の侍両人に持たせ京都へ被指越、是を質物に遣し金を借り候分にては、事足り申
ましき間、少なり共直段を宜しく売払ひ申様にと在之、上方へ持参いたし候処に調申度と望候もの共は余多在之候へ共、此茶入の義は天下の名物
の義にも候へは、内々にては売買はいかゝと在之、所司代え相伺ひ候処に板倉殿(勝重)殿御申候は、其かた付(肩衝)の由緒はともあれ当分
の持ち主の義は、越中守殿にて在之候処に、金子入用に付て売被払候に於ては別儀無之間、望の者は心次第の義成へし、但し此茶入の義は我等名
を聞及ひ終に見さる間、売買求め代物等の取やり抔も相済候に於ては、一覧有へきとの義にて事済、両人の侍共は金子を請取、大阪表へ持下り八
木(米)麦ひえ其外何によらす農人共の食物共、可成類の諸色を右の金子限りに買調へ船に積、小倉江着眼候以後其穀物を悉く領分へ割あたへ被
申故、飢に及ひたる農人共力を得作業に取付候となり。此義を世情に於いも大きに取沙汰仕り、向後共に国軍の主たる人の能き手本に候なりと申
て、越中守を世間て誉事に仕り候を以、今度肥後の国主には、細川とのより害には有ましきなと人々申ふれ候と也。
(了)