「手討達之扣-(22)種々四件」において、「志方半兵衛儀去年四月組之足軽橋本実右衛門を致手討候一件」という事件があり「其身未タ屈服不致内罪名を以御給扶持差放彼是卒忽之次第ニ付當御役被差除」とあるが、この人物の特定に至らない。そこで枝葉を大いに広げている志方一族を略系図にしてみた。
志方家は、「赤松則祐五代孫で志方右衛門尉・繁広が、天正六年織田信忠に志方城を落され討死、一子六助(之吉)二歳ニ成候を家之子乳母ニいたかせ忍出、縁者たるにより丹波の赤井悪右衛門方ニ連越、其後丹後国長生院と申寺俗縁有之ニ十五歳迄居候内、心操有之段忠興君被聞召、十七歳之時被召出御知行五十石拝領御昇頭被仰付、其後御加増百石被下、所々之御陳相勤、中ニも於高麗深手負、御懇之御意ニ而御直ニ御薬拝領、関ヶ原・大坂ニも右之役儀相勤、八代ニも御供仕、殊之外御懇意ニ而、寛永二十年病死」とあり、一族ではこの六助を初代としている。 (綿考輯録・巻十六記事を編集)
志方六助(之吉)ーーー+
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+ーーー半兵衛ーーー+ーーー半右衛門ーーー弥五右衛門ーーー弥次兵衛・之実ーーー清蔵・之時ーーー弥次兵衛・春武ーーー弥左衛門ーーー逸次ーーー蘭八(半右衛門)ーーー(9)
| | ーーー(9)慎八(半兵衛)ーーー午二郎(半兵衛・逸次) 志方逸次【丹後以来】(南東52-9)
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| +ーーー半七ーーー半七・之高(半兵衛)ーーー半七(半弥、半兵衛・之経)ーーー弥十郎ーーー左内(半兵衛)ーーー司馬助ーーー(7)
| | ーーー(7)千久万(弥左衛門)ーーー次郎彦(半弥)ーーー 勝之助(司馬助・仙太) 志方仙太【丹後以来】(南東52-11)
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| +ーーー十兵衛ーーー+ーーー十兵衛ーーー又次郎・之昌(之明、之克)ーーー千左衛門ーーー又次郎ーーー又勝(十兵衛)ーーー千左衛門ーーー軸人
| | 志方軸人【丹後以来】(南東52-10)
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| +ーーー玄求ーーー玄好ーーー玄育ーーー玄洞ーーー玄常ーーー玄節ーーー玄節(潜庵)ーーー柳臺
| 志方柳臺【丹後以来】御医師(南東57-33 医)
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+ーーー小左衛門ーーー五郎兵衛ーーー五郎兵衛ーーー半之允ーーー五郎兵衛ーーー弥七郎ーーー小左衛門ーーー寧(小左衛門・半之允)ーーー徳十郎(半之允・半)
志方 半【丹後以来】(南東52-12)
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この家については、何処につながるのか現況不明である。
■ 志方嘉十郎 【丹後以来】 (南東52-13)
1、嘉平次
2、半内・之経(加平次)
3、長平次・之辰 百石 御番方七番
4、半(嘉平次・半内) 御番方・宮村典太組 高百石之御擬作
天明五年正月:志方半内、是迄不奉願在宅付而、改メ在宅願之儀取遣之事
(熊本市史資料編第三編p253在宅願頭書)
5、半三郎(嘉平次)
6、重助(嘉十郎) 高百石之御擬作