弥一右衛門は忠利に殉死した阿部氏、弥五右衛門は三斎忠興に殉死した興津氏である。
共に、森鴎外の史伝小説「阿部一族」「興津弥五右衛門の遺書」の主人公である。
「~も~」ということは「=」を示しているのだが、なにが=かというと、両方とも「当然殉死するべき人物」と周囲にとらえられ
ていた。
阿部弥一右衛門の出自は、豊前の百姓で惣庄屋職であったと伝えられるが、忠利によりその能力を高く買われて召出され近侍する
とともに、細川家の肥後入国に当たってもお供している。肥後に於いてもその実力は遺憾なく発揮された。
山本博文氏著「男の嫉妬」でも指摘されているが、殉死をすべきだと言い募る人たちはまさに弥一右衛門の出自と出頭(出世)に対
する「嫉妬」に他ならない。
弥一右衛門は殉死を願い出ているが、当の忠利が拒否したとするのは事実とは相違し、他の殉死者と同じ日に殉死している。
世間のとかくの云い様にに対して、日ならずして殉死したとするのは鴎外の脚色である。
阿部一族の不幸は連鎖して、嫡子権兵衛の忠利三回忌における不都合な振舞いから一族誅伐という事件となった。
一方興津弥五右衛門は、三斎公の命を受けて長崎へ香木の買い付けに出かけ、入れ札の高騰するにあたって、相役の横田清兵衛と
口論になりこれを殺害した。
帰藩した弥五右衛門は、同役を殺害した故をもって切腹することの許しを乞うたが、三斎はこれを許し、清兵衛の遺児に対し意趣を
持たないようにと席を設けている。
客観的にみると「殉死対象者」とみられる事は致し方ないことであったかもしれない。
三斎の死後、八代の情勢を調査に入った丹羽亀之允は、「三斎御付衆」一人ひとりの動向を見定めて、藩に報告を上げている。
その中に次のような一文が残されている。
一、三齋様江戸御屋敷御留守居ニ被召置候沖津弥五右衛門 三齋様被成御逝去
候而後ゟ傍輩共申候者 殿様を御主と奉存候由申候得共内心ハ少も左様ニ
不存様ニ相見申候由 此表ニ而沙汰仕只今加様之儀致言上候儀最早跡ニ可罷
成与奉度候得共重而御心得ニ茂可被為成候と存申上候 特又此表御侍衆
殿様江戸御發足被遊御延引候故何も気遣ニ存躰ニ御座候 私共も乍憚奉存候
ハ此表之御仕置之儀ニ付被為得上意之処ニ江戸御發足相延気遣ニ奉存候 猶
相替儀も御座候て可致言上候 此等之趣宜願御披露候 恐々謹言
六月廿五日 丹羽亀之丞
藤崎作右衛門殿
弥五右衛門は職務が多忙であったため、三斎死去直後の殉死はできなかったとしているが、国元でこのような噂が囁かれていた
ことは、当然耳に入ったことであろう。
弥五右衛門の殉死の気持ちは確固たるものであったろうが、このような噂話は何とも腹立たしい思いであったろう。
そして弥五右衛門は阿部弥一右衛門の殉死とそれに伴う一族の滅亡を知っている。
上記報告書からすると、自らの殉死する三斎公の三回忌迄一年六ヶ月ほど、弥五右衛門の鬱々とした気持ちは、阿部弥一右衛門の
それに比べると如何にも長く感じられたことであろう。
「阿部一族」も「興津弥五右衛門の遺書」も史伝小説とは言いながら、引用した史料「阿部茶事談」「翁草」等に虚構がある
こともあるが、鴎外によって脚色を施されてもおり、史実とは大いに異なることを承知しておかなければならない。