津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・生田氏

2010-02-16 11:19:21 | 歴史
 細川宗孝が江戸城中で、寄合衆板倉修理に人違いで刃傷に及ばれ不慮の死を遂げたが、事件を聞きつけ城内に走りこんだのが生田又助である。若干十八歳で小姓頭を務め、当日の登城の責を勤めた。其の事件の顛末は「生田又助覚書」により詳細である。事件後熊本に帰った又助は、一番に藤崎宮に参詣「君の御身一人をだに擁護し玉はねば、此後は敬ひ奉る事も候はじ」と、「神義絶」を申し入れている。硬骨の士である。
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 又助======又助======又助======又助======又助(御暇断絶)
           坂崎清左衛門三男    小坂半之允三男    上月十郎太夫二男    貴田角右衛門二男

 各代夫々名家から養子が入っている。家禄560石余の勲功の家も五代又助の代、御暇にて断絶した。

昨日ご紹介した「伊達家の秘話」でも「細川家の救済」という項が有るようだが、夫人が共に徳川宗直公女(同母姉妹)の関係にある伊達宗村公が、「細川公は未だご存命である。早く屋敷に帰りお手当てを」と細川家家臣に指示をされたという。又妹婿にある織田信舊公(柏原藩主)が事後処理に奔走している。又助は事件のさなかにあっても、細川家跡式について大老堀田越前守に掛け合い「御墨付」を給わったという。若干18歳、緒方氏記録は「誠に又助の働古の社稷臣とも申べき」と記す。天明四年十月二十二日没、七十五歳、禅定寺に葬。

 参考      
            伊達宗村
                ∥
           +----●
           |
   徳川宗直---+
           |
           +---友姫(静證院)
                ∥
   細川宣紀---+---宗孝===重賢
           |           ↑
           +---重賢・・・・・・・・・
           |
           +---姫
                ∥ カイバラ
            織田信舊(柏原藩主)
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