寛永八年十二月廿七日書状(細川家史料・四 p161)に次のようにある。忠利宛て三齋書状
大局むすめニ、遠坂(越後)借米不残取立御やり候て請取給候、無残相済満足申候、
彼女一世ノ身上すみ申候事 付、遠坂借状返シ申候事
文章から取立は忠利が行ったことが判る。20石を借り、途中で7石を返し残りが168石在ったというが、「不残取立」とあるから、168石返済されたという事であろう。「四わり」とあるのは年利であろうが、とんでもない高利である。せいぜい六年ほどの間の事であろう。
一方この書状には次のようにも有る。
飛鳥井殿(雅章)ニ御入候御姫之金小判貮千両、誰ニ成ともかし度由候、家中之者共
ニ成とも御かし候は、京にて渡可申候、利ハ惣様之借候なみたるへく候、御返事ニより、
明日便宜在之間可申遣事
この飛鳥井殿に嫁いだ御姫とは三齋の愛娘・万(烏丸)の姫であろう。貮千両とは驚きであるが、もともとは細川家から出たものであろう。
借金の取り立てをする一方で、貸金の斡旋をするというなかなかタフなご老人ではある。
もっとも春日局なども細川家での財産運用をたのみこんでいるから、貧乏所帯の細川家は狙い撃ちされているのかもしれない。