23:14 震度4(西原・菊陽)の地震あり、わが東区では3、久しぶりという感じ・・・・・
震源は北緯32.8度/東経130.9度 つまり4月16日の本震の北緯32度45.2分東経130度45.7分 に近いということ。
本震の震源周辺がまだ壊れている。
経度・緯度の指定によるGoogle Earth/Google Maps/地図の起動
23:14 震度4(西原・菊陽)の地震あり、わが東区では3、久しぶりという感じ・・・・・
震源は北緯32.8度/東経130.9度 つまり4月16日の本震の北緯32度45.2分東経130度45.7分 に近いということ。
本震の震源周辺がまだ壊れている。
経度・緯度の指定によるGoogle Earth/Google Maps/地図の起動
転居した我が家の窓から、自衛隊の西部方面総監部・健軍駐屯地の赤いタワーが見える。直線距離にして最も近い所(西北角)では300メートルほどだろうか。
梅雨が明けたらこの自衛隊敷地を一周する朝の散歩を楽しみたいと思っている。
自衛隊のこの場所はかっての三菱重工業・熊本航空機製作所があった場所だが、広さは約半分ほどである。
ここには終戦まで重爆撃機「飛龍」を生産していたのこぎり屋根の広大な工場が残り、自衛隊の施設として利用されている。
熊本航空機製作所の北側には健軍飛行場があった。現在の日赤熊本病院あたりが滑走路である。
又、自衛隊の敷地の西北角から西に進む道路は、かって豊肥線水前寺駅につながるいわゆる「三菱引っ込み線」の名残である。
私は幼年期大江町本(現在・新大江3丁目)に住んでいたから、「三菱引っ込み線」は格好の遊び場だった。
「九州ヘリテージ」というサイトの中に旧三菱重工業熊本航空機製作所がある。
たくさんの写真や詳細な位置を示す地図などが紹介されていて、この地図を手掛かりに「地図散歩」をしている。
この地図を眺めていると、健軍飛行場の周辺の道路や水路の名残が今でも確認できてなるほどと合点させられる。
自衛隊の南に位置する沢山の公共施設や、学校、商業施設、公務員住宅や県・市営住宅などが、三菱熊本航空機製作所敷地であったのだ。
そして現在は市電の終点につながっている。
これら健軍飛行場・三菱熊本航空機製作所の跡は、新興住宅地となっているが、かってこの様な施設があったが故に熊本大空襲にさらさた事をご存知の方はどれほどおいでになるだろうか。
私は一応大空襲の経験者である。
先に■「肥後名家墳墓録」からを書いた。我が遠祖庄左衛門の兄・長五郎の娘・熊のことが書かれている。
その熊(龍源院)がお寺を創建したのだというから驚きだが、残念なことに明治十年の西南の役で焼失したと思われ、廃寺となった。
熊の関係者のお墓などあったものと思われるが、詳しいことはようとして知れない。
「肥後名家墳墓録」を読むと、「建九重石塔於流長精舎」とある。流長精舎とは現在の流長院だと考えられるが、この九重の石塔は現存するのだろうか。
流長院のあたりは、かっての坪井川の流路が大きく変更され現在に至っているから、ひょっとすると現存していないかもしれない。
随分以前清正公の遺産・瀬田井樋修復を書いた折、その文中にこの石塔のことを書いた。寛政八年の大水害に関することである。
「寛政八年(1796)六月十一日に熊本を襲った大洪水(辰の年の水害)は、熊本藩年表稿によると高さ1丈6尺(約4.8メートル)の古今未曾有の洪水と成り、熊本府内京町山崎の外全域浸水、潰家2,927軒、田畑15、202町、損毛362,000石に達したとある。
内坪井の流長院では九重の石塔の六番目、約6メートルの高さに達したという。」
ここに九重の石塔が登場する。
何故流長院に石塔を建立したのか?。肥後国誌によると龍源院は寛文十一年(1671)寺原の地に宅地を求めて一宇を興し、流長院三世船若和尚の弟子恵日を庵主とした。ここに流長院との関係が見て取れる。
寛文十一年(1671)このお寺宗嚴寺を創建するにあたって、遠く長州の大寧寺(タイネイジ)の末寺となった。大寧寺二十五世悦源を開山とする。恵日を二世とした。
なぜ長州長門のお寺なのかと不思議に思えたのだが、もともと磯部氏は毛利家の家臣であった。長門に住んでいたのだろうか。
もっとも長五郎・庄左衛門は父・磯部市右衛門とともに下松に浪居しているところに、京や江戸へ登られる忠興公一行が度々立ち寄られ、その後兄弟二人が豊前へ召し寄せられたという経緯がある。どうも長門へは結びつかないが今後の課題である。
断片的な資料を集めながら、これらをつなぎ合わせて「お熊さん」に迫ってみようともがいている。