津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■松寿庵先生・第191講

2016-06-16 09:30:34 | 史料

                    蛍丸   蛍丸|KKTくまもと県民テレビ

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■小笠原三家

2016-06-16 06:23:24 | 歴史

 先に■老中小笠原長行と細川家家臣小笠原多宮家を書いた処、最近コメントをいただいた。
所蔵される文書に「熊本の三小笠原(家)」という言葉があり、備前家(ガラシャ夫人の介錯を務めた少斎の系統)と多宮家(忠利夫人の実家・豊前小倉藩主小笠原家の弟の系列)の他にもう一家存在するのだろうかという疑問を呈せられた。

「細川藩主要家臣系図」をみると、備前家においては少斎に三人の男子長光・長定・長良があるが、長定(玄也)は切支丹の故をもって妻子や下人とともに殺害された。三男長良は細川幽斎女を室としたが男子がなく絶家した。
嫡男・長光に長之・長昌・長義の三人の男子があるが、三男長義(勘助)は細川綱利代に陽明学徒の故をもって追放され、その子・又右衛門の代からは加々美氏を名乗っている。つまり備前家は長之・長昌流の二家が小笠原を名乗り明治に至っている。

一方多宮家は忠利夫人の弟・杵築藩主小笠原忠知の三男・忠定の子(四男?)長賢が初代である。(元禄十二年)
嫡流一家のみで分家流はない。

つまり小笠原三家とは、備前家二家と多宮家をもって三家と称していたものと思われる。
これは川口恭子先生の「細川家家臣略系譜」をみても、備前家の小笠原七郎(長之流6,000石)、小笠原夫五郎(長昌流1,300石)と、多宮家の小笠原一学(1,900石)の三家が紹介されている事からも伺える。

 

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