津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■松寿庵先生・第192講

2016-06-23 10:02:33 | 史料

              

 過去に「地震の間」についていろいろ調べてきた私にとって、この192講の記事はうれしい。
今般の熊本地震に遭遇し、多くの倒壊家屋を見るにつけ建築士の私にとっては忸怩たる想いがある。
幸い私が関わった住宅建築は、ほとんど無傷で会ったことは救いであった。
しかし現在の耐震工法で建てられた住宅でも倒壊した事例が幾つもある。二回にわたる震度7では耐震工法でも無理だったということである。
この192講でも触れられているように、地震の間は「免震工法」の構造となっている。大きな殿舎が倒壊しても、「地震の間」に逃げ込めば一安心という訳である。
現在の建築基準法には限界を感じるし、建築士の多様な発想で「免震工法住宅」が多いに検討されることを願いたい。

論考「彦根城楽々園地震之間について」 
      http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/10504/1/ji0184009.pdf

私が地震の間に興味を持ったきっかけは、やはり地震が発端である。最初に書いたのが 地震の間 で、2008:4:25に書いている。
その後いろいろ書いてきたが、こうして改めて眺めてみると建築士としての想いが含まれているように思える。 

       

■寛永10年の地震

白金邸

こりずに「地震屋」

またまた・・又、地震の間

またまた地震の間

初期の御花畑邸

加賀前田藩上屋敷--地震之間 (二)

加賀前田藩上屋敷 -- 地震之間

「地震之間(屋)」情報を集めてみる 

彦根城楽々園-- 地震之間

熊本城内地震之間

又々 地震の間

御花畑邸の「地震の間」

地震屋(間)

            

 唯一地震之間の存在が書き込まれている、花畑邸絵図のトレスである。印の部分が地震之間である。この絵図が作成された時期は判らないが、忠利の入国後寛永期のものではないかと私は推測している。ただ能舞台などがあるところをみると、時代は下るかもしれない。披雲閣とあるあたりは後年藩主の私室・陽春之間が出来ることになり、その後の絵図ではこの地震之間はなくなっている。  2012-08-28記事再掲



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■お安く読む・新潮新書「戦国武将の明暗」

2016-06-22 17:32:59 | 書籍・読書
 戦国武将の明暗 (新潮新書)
 
     新潮社

戦国時代――。日本史上、最も過酷な時代に、武将たちは何を考え、どう行動したのか? 時に一瞬の迷いが一家滅亡を招き、時に果敢な決断が家運の隆盛につながる。「関ヶ原の戦い」という天下分け目の決戦を中心に、生き残りをかけた戦国武将たちの明暗を解き明かす。通説はもとより、最新の研究成果も積極的に紹介しながら、堅苦しくなりがちな歴史研究の最前線を、わかりやすく、面白く紹介していく。

著者はご存じ東大史料編纂所教授の本郷和人氏、なかなか砕けた筆致ながら溢れる学識を駆使して、縦横無尽で解き明かす一節/\が大変面白い。

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■今日も地震で起床です

2016-06-22 05:43:58 | 熊本地震
  • 発生時刻: 2016年6月22日 5時38分ごろ 震源地: 熊本県熊本地方 最大震度: 4マグニチュード:3.9 
    我が東区は震度2、震源は宇城市のようですが、隣の宇土市は昨日一時間に150㎜の大雨が降り、大規模な水害に見舞われ土砂崩れの被害が発生しています。
                       ニュース検索結果の画像
    4月16日には市庁舎が大規模損壊しています。
                        「宇土市庁舎」の画像検索結果 

    熊本は昨日短時間大雨警報が度々(五度?)出て大雨となり、死者が出る被害があちこちで発生しています。
    地震被害に追い打ちをかける無情の雨が今日も降り続いています。
                 
    昨晩は三度集中して揺れました。
  • 発生時刻: 2016年6月21日 20時42分ごろ 震源地: 熊本県熊本地方 最大震度: 1マグニチュード:2.2
  • 発生時刻: 2016年6月21日 20時17分ごろ 震源地: 熊本県熊本地方 最大震度: 1マグニチュード:2.6
  • 発生時刻: 2016年6月21日 20時03分ごろ 震源地: 熊本県熊本地方 最大震度: 1マグニチュード:2.1
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■水無川変じて濁流となる

2016-06-21 07:59:54 | 熊本

 昨晩は数時間ものすごい雷雨に悩まされ、夜中にはPhotoVision TV(奥方の台所用)が突然馬鹿でかい警報音(短時間大雨情報?)を発して起こされてしまった。
それも今朝まで三回だからたまらない。今日も睡眠不足で目が痛い。
メディアが報じているように記録的大雨となり、我が家のすぐ近くを流れる健軍川も濁流がスゴイ速さである。
川と称するが日頃は水の流れがまったくない、いわゆる水無し川である。雨が降ると流域の側溝の水が一気に集積される。
5㎜も降れば立派な川となる。
昨日から今朝ほどの豪雨となれば洪水を起こすのではないかと、この地の新住民としては心細いことこの上もない。
昭和28年の大水害を経験して、高い所へと移り住んできたが、思いがけない地震で被災してこの地へ越してきたが・・・・・まことに遺憾千万なことである。

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■寛永十六年六月十七日書状から・・裏松家消息

2016-06-20 08:54:18 | 史料

 寛永十六年六月十七日、忠利は烏丸資慶と弟・熊丸に各々書状を発している。熊丸元服の祝儀である。(大日本近世史料・細川家史料25 p269・270)

     ■(5383)烏丸資慶宛書状
    熊丸殿御元服之由承、目出度存候、仍為御祝儀三種三荷令進入候、其地相替儀無御座候、
    當地別條無御座、三齋・我等も無事ニ罷在候間、可御心易候、恐惶謹言
       六月十七日
       烏丸侍従様
          人々御中

     ■(5384)裏松資淸宛書状
    一筆申入候、貴様御元服之由承、目出度存、以使者申入候、仍為御祝儀三種三荷并御帷子
    之内單物令進入候、幾久祝候而如此ニ御座候、尚期後喜之時候、恐惶
       六月十七日
       烏丸熊丸様
          人々御中 

烏丸熊丸とは烏丸光賢の二男である。生母は細川忠興女・萬である。烏丸光賢は前の年に死去しており、この時期の烏丸家の当主は兄・資慶である。
熊丸の生年は寛永三年、この年十四歳である。六月二十八日元服、昇殿勅許、従五位上弾正大弼叙任、新家裏松家初代となった
正保四年家光より新知130石を拝領している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて烏丸家に嫁いだ萬姫については父・忠興が溺愛したことが知られている。
「妙解院忠利公御代於豊前・御侍衆併軽輩末々共ニ」には、萬の知行として「二千石八斗一升四合五勺 右三齋様御姫烏丸中納言藤原光賢卿北ノ方 御末女也」とある。烏丸家は、ある資料によると知行は954石とあり、萬への知行の大きさが伺われる。

「御侍帳・元禄五年頃カ」には、御上ろう衆として、
  千石        烏丸宰相様
     内
    四百五十石   裏松宰相様
    二百石     七条侍従様
    二百石     勘解由小路様
    五十石     春宵院様
    百石      栄春院様    とある。

細川家と烏丸家の関係を通じて、烏丸家の庶家である諸家に合力されていたことがわかる。

 

 

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■6:39地震で起床

2016-06-20 07:34:08 | 熊本地震

 昨晩は就寝後激しい風の中、ウインドチャイムと風鈴を取り込んだ。奥方が近所迷惑になるとのたまう。
穏やかな風の時にはウインドチャイムの音には本当に癒されるが、昨晩の風ではね~さすがに私も即実行せざるを得なかった。
そんなすごい雨と風の音の中いささか睡眠不足気味の処を地震で起こされた。震度は1(震源・御船町は3)、大概にしてくれよと言いたくなる。
すこし震源が南に下って来ている。日奈久断層系の地震だろうがこちらでは先に八代で5弱の地震があった。
完全終息には程遠いことを実感させられる近ごろである。眠い・・・・

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■がんばれ熊本城

2016-06-19 18:51:56 | 熊本地震

 熊本城の被災状況はまだつぶさに見ていない。いろんな写真をみるかぎりだが、なんとも痛々しく、熊本人は復興のシンボルとした。

この図は安政三年に起きた地震のことを記載した「安政見聞誌」にある、江戸城御門の被災の図である。この図は四谷御門といわれているが、半蔵門も別に描かれている。
この「安政見聞誌」は発禁となったが、版元は入墨をいれられ「所払い」となり、絵師や摺り師も罪を得た。
発禁処分となったのは何故か、それはお上を愚弄する風刺本と考えたからである。軍事機密でもあったのである。

熊本市においてはこの度被災した熊本城の現状を、観光客にみていただこうと目論んでいるらしい。
長い時間と大きな財源を必要とする復旧工事をみていただき、その将来に希望を託そうとするものである。がんばれ熊本城・・・・

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「安政見聞誌」の絵は、この東京国立博物館蔵の「四谷見附門」では右手に見える櫓門を描いているのでしょうね・・・・

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■20:46 震度4

2016-06-18 20:53:13 | 熊本地震

私が住む東区では震度3でしたが・・・
久しぶりの大きな揺れに思わず椅子から立ち上がり、テーブルにつかまり身構えてしまいました。

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■小笠原右近大夫貞慶

2016-06-18 15:32:34 | 書籍・読書

 

小笠原右近大夫貞慶―武田信玄に敗れ没落した小笠原長時、その小笠原家を再興した小笠原貞慶の一代記

 

小笠原右近大夫貞慶―武田信玄に敗れ没落した小笠原長時、その小笠原家を再興した小笠原貞慶の一代記

 
                                                           歴研

 

目次

小笠原氏の由緒
小笠原長時
小笠原貞慶登場
貞慶と織田信長
貞慶、回天偉業なる
府中の平定
貞慶、徳川氏に属す
豊臣・徳川両雄の狭間で
再び徳川に従属
貞慶、没す
貞慶の家族
その後の小笠原氏     (貞慶の子が秀政、その女子が細川忠利夫人千代姫である)

著者紹介

志村平治[シムラヘイジ] 
昭和26年、長野県中野市に生まれる。長野郷土史研究会、歴史研究会(全国歴史研究会)、日本古城友の会、信濃名族研究会等の委員・理事他で活動中

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■焼酎片手に観月・・・

2016-06-17 22:25:36 | 徒然

 クーラーを付けていない室内は28度ほど、10時過ぎシャワーをしてすっきりした処で、オンザロックで焼酎を一杯・・・・
ベランダにでて空を見上げると月に群雲・・・うろこ雲(?)の中を出たり入ったりしている。
すぐ下に割りと大きい星が見える。火星だ・・・・ついこの間地球に再接近した火星、ちっちゃくなってしまって・・・・
そして土星がすぐ近くで輝いています。
同じ高さで南西方向に見えるのは多分木星でしょう。乱視の私には、ただ明るい星にしか見えないのが残念ですが・・・

             13 今日は月齢12日です。

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●0.16 青潮社 【肥後国誌 全3巻箱入り 復刻版】 1984年

2016-06-17 18:51:47 | オークション

                ●0.16 青潮社 【肥後国誌 全3巻箱入り 復刻版】 1984年

 

             ●0.16 青潮社 【肥後国誌 全3巻箱入り 復刻版】 1984年

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■堀内伝右衛門覚書◆明治27大石内蔵助赤穂義士肥後熊本江戸和本

2016-06-17 18:42:41 | 熊本地震

                       堀内伝右衛門覚書◆明治27大石内蔵助赤穂義士肥後熊本江戸和本

 

                 堀内伝右衛門覚書◆明治27大石内蔵助赤穂義士肥後熊本江戸和本

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■松寿庵先生・第191講

2016-06-16 09:30:34 | 史料

                    蛍丸   蛍丸|KKTくまもと県民テレビ

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■小笠原三家

2016-06-16 06:23:24 | 歴史

 先に■老中小笠原長行と細川家家臣小笠原多宮家を書いた処、最近コメントをいただいた。
所蔵される文書に「熊本の三小笠原(家)」という言葉があり、備前家(ガラシャ夫人の介錯を務めた少斎の系統)と多宮家(忠利夫人の実家・豊前小倉藩主小笠原家の弟の系列)の他にもう一家存在するのだろうかという疑問を呈せられた。

「細川藩主要家臣系図」をみると、備前家においては少斎に三人の男子長光・長定・長良があるが、長定(玄也)は切支丹の故をもって妻子や下人とともに殺害された。三男長良は細川幽斎女を室としたが男子がなく絶家した。
嫡男・長光に長之・長昌・長義の三人の男子があるが、三男長義(勘助)は細川綱利代に陽明学徒の故をもって追放され、その子・又右衛門の代からは加々美氏を名乗っている。つまり備前家は長之・長昌流の二家が小笠原を名乗り明治に至っている。

一方多宮家は忠利夫人の弟・杵築藩主小笠原忠知の三男・忠定の子(四男?)長賢が初代である。(元禄十二年)
嫡流一家のみで分家流はない。

つまり小笠原三家とは、備前家二家と多宮家をもって三家と称していたものと思われる。
これは川口恭子先生の「細川家家臣略系譜」をみても、備前家の小笠原七郎(長之流6,000石)、小笠原夫五郎(長昌流1,300石)と、多宮家の小笠原一学(1,900石)の三家が紹介されている事からも伺える。

 

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■AR710 大正期 宇土 細川月翁公作 竹茶杓・象牙蓋茶入等六点一式

2016-06-15 06:26:30 | オークション

                         AR710 大正期 宇土 細川月翁公作 竹茶杓・象牙蓋茶入等六点一式

 

                   AR710 大正期 宇土 細川月翁公作 竹茶杓・象牙蓋茶入等六点一式 

 宇土支藩六代目藩主・細川興文公御自作の茶杓に所持されたという品五点を添えたものであるという。
名君とうたわれたが茶人としても名高く、茶道書である『平置諸品集』を著している。嫡男・立禮公は本藩を継いだ(十代・齊茲
高く値がつきそうな気配・・・・ 

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