13:55地震あり、椅子に座っていたのだが地震酔いといった感じでゆらりと来た。最大震度3(宇城市)、わが東区は震度1。
余震としては随分回数が減り、間もあいてきたが終息とは参らない。もう大きな地震は起こらないと信じているが・・・そうあって欲しいと願うばかりである。
最近は何かの拍子に身体が揺れる。地震酔いだと思うのだが、地震以来血圧も上がって高止まりしている。
引越しやなにやらで体重は2キロほど減って70キロちょうどになった。なんとか69キロ代に突入しようと散歩を始めようと思っている。
唯今地図とにらめっこしながらコース作り中である。
地震後ようやく読書をしようという気になってきた。まず手にしたのは 大日本近世史料・細川家史料25 である。
この本は5月20日東大史料編纂所からご恵贈いただいたものである。
内容は、寛永15年12月1日から翌16年12月29日までの細川忠利の諸方宛書状案である。参勤出立についての西国大名との応答、鍋島勝茂等赦免、在国・道中・江戸での交際、異母弟立孝処遇を巡る父・忠興・老中との折衝、ポルトガル船来航禁止などが取り上げられている。
そんな中に久留米藩主有馬豊氏に宛てた忠利の寛永15年12月8日付けの書状に、思わず笑ってしまった。
忠利はこれより先の便で、父・三齋の消息を豊氏に伝えているようだが、どうやらこれに間違いがあったらしい。抜粋してご紹介する。
珍敷儀何も不承候、三齋様も無事罷有候、年内も何やかや用共互多御座候間、春参候へと
被申越候、先書ニ八代ハ大雪ふり候事(由)申入候かと存候、三齋状ニ大霜と御座候を、我等
雪とよミ違申入候、文盲成仕合、我なから笑申候、切々被懸御心、忝存候事
三齋の字は相当くせがある。霜と書かれているのを雪と読み間違えたというのである。親しい間柄故の打ち解けた文章に見て取れる。
それは尚々書にも見えていて、「自筆にて御報可申入候へ共、たかニゆひをとられ、いたミ申候間、人ニかヽせ申候・・・」とある。
鷹狩りの際指を傷つけられて筆が持てないと言うのである。
天草島原の乱が終結して約9ヶ月半ほどのこの時期、忠利の身体は万全とはいえない。
参府したのは翌16年3月23日のことである。