津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■寛永十六年六月十七日書状から・・裏松家消息

2016-06-20 08:54:18 | 史料

 寛永十六年六月十七日、忠利は烏丸資慶と弟・熊丸に各々書状を発している。熊丸元服の祝儀である。(大日本近世史料・細川家史料25 p269・270)

     ■(5383)烏丸資慶宛書状
    熊丸殿御元服之由承、目出度存候、仍為御祝儀三種三荷令進入候、其地相替儀無御座候、
    當地別條無御座、三齋・我等も無事ニ罷在候間、可御心易候、恐惶謹言
       六月十七日
       烏丸侍従様
          人々御中

     ■(5384)裏松資淸宛書状
    一筆申入候、貴様御元服之由承、目出度存、以使者申入候、仍為御祝儀三種三荷并御帷子
    之内單物令進入候、幾久祝候而如此ニ御座候、尚期後喜之時候、恐惶
       六月十七日
       烏丸熊丸様
          人々御中 

烏丸熊丸とは烏丸光賢の二男である。生母は細川忠興女・萬である。烏丸光賢は前の年に死去しており、この時期の烏丸家の当主は兄・資慶である。
熊丸の生年は寛永三年、この年十四歳である。六月二十八日元服、昇殿勅許、従五位上弾正大弼叙任、新家裏松家初代となった
正保四年家光より新知130石を拝領している。

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さて烏丸家に嫁いだ萬姫については父・忠興が溺愛したことが知られている。
「妙解院忠利公御代於豊前・御侍衆併軽輩末々共ニ」には、萬の知行として「二千石八斗一升四合五勺 右三齋様御姫烏丸中納言藤原光賢卿北ノ方 御末女也」とある。烏丸家は、ある資料によると知行は954石とあり、萬への知行の大きさが伺われる。

「御侍帳・元禄五年頃カ」には、御上ろう衆として、
  千石        烏丸宰相様
     内
    四百五十石   裏松宰相様
    二百石     七条侍従様
    二百石     勘解由小路様
    五十石     春宵院様
    百石      栄春院様    とある。

細川家と烏丸家の関係を通じて、烏丸家の庶家である諸家に合力されていたことがわかる。

 

 

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■6:39地震で起床

2016-06-20 07:34:08 | 熊本地震

 昨晩は就寝後激しい風の中、ウインドチャイムと風鈴を取り込んだ。奥方が近所迷惑になるとのたまう。
穏やかな風の時にはウインドチャイムの音には本当に癒されるが、昨晩の風ではね~さすがに私も即実行せざるを得なかった。
そんなすごい雨と風の音の中いささか睡眠不足気味の処を地震で起こされた。震度は1(震源・御船町は3)、大概にしてくれよと言いたくなる。
すこし震源が南に下って来ている。日奈久断層系の地震だろうがこちらでは先に八代で5弱の地震があった。
完全終息には程遠いことを実感させられる近ごろである。眠い・・・・

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