寛永十六年六月十七日、忠利は烏丸資慶と弟・熊丸に各々書状を発している。熊丸元服の祝儀である。(大日本近世史料・細川家史料25 p269・270)
■(5383)烏丸資慶宛書状
熊丸殿御元服之由承、目出度存候、仍為御祝儀三種三荷令進入候、其地相替儀無御座候、
當地別條無御座、三齋・我等も無事ニ罷在候間、可御心易候、恐惶謹言
六月十七日
烏丸侍従様
人々御中
■(5384)裏松資淸宛書状
一筆申入候、貴様御元服之由承、目出度存、以使者申入候、仍為御祝儀三種三荷并御帷子
十之内單物五令進入候、幾久祝候而如此ニ御座候、尚期後喜之時候、恐惶
六月十七日
烏丸熊丸様
人々御中
烏丸熊丸とは烏丸光賢の二男である。生母は細川忠興女・萬である。烏丸光賢は前の年に死去しており、この時期の烏丸家の当主は兄・資慶である。
熊丸の生年は寛永三年、この年十四歳である。六月二十八日元服、昇殿勅許、従五位上弾正大弼叙任、新家裏松家初代となった
正保四年家光より新知130石を拝領している。
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さて烏丸家に嫁いだ萬姫については父・忠興が溺愛したことが知られている。
「妙解院忠利公御代於豊前・御侍衆併軽輩末々共ニ」には、萬の知行として「二千石八斗一升四合五勺 右三齋様御姫烏丸中納言藤原光賢卿北ノ方 御末女也」とある。烏丸家は、ある資料によると知行は954石とあり、萬への知行の大きさが伺われる。
「御侍帳・元禄五年頃カ」には、御上ろう衆として、
千石 烏丸宰相様
内
四百五十石 裏松宰相様
二百石 七条侍従様
二百石 勘解由小路様
五十石 春宵院様
百石 栄春院様 とある。
細川家と烏丸家の関係を通じて、烏丸家の庶家である諸家に合力されていたことがわかる。