細川家の三卿・有吉家が家臣に与えた宛行状である。
署名にある武蔵守とは有吉立行のことであるが、ここでは立理と名乗っている。慶長六年七月七日、「岐阜・関原・木付の役ニ手ニ合候者」に対して「御饗応之席」が設けられた。その際立理は長岡姓を名乗ることを許されるとともに武蔵守を名乗った。「古の武蔵坊(弁慶)にもおとるまじ」と忠興公の言である。詳細は先に「長岡姓を賜る」に書いたのでご覧いただきたい。
この席には細川興秋や嫡男・興道らも同席している。武蔵守は慶長十二年十二月備後で客死した。50歳。
そしてこの宛行状には立理と並んで四郎右衛門の名前が見えるが、これが興道であろう。この時期には四郎右衛門を名乗っていたことが判る。
細川重賢公に、「菊合せ眼鏡外してほめにけり」という句が残されている。
御世辞にもお上手とは思えない句だが、重賢公存生の時代を考えると思いがけない情景ではある。
眼鏡の歴史などとんと判らないが、「外して」ということになると耳に掛けておられたのだろう。
俳句というものは想像の賜物としての句もあるから、この句が即重賢公のお姿とは参らぬだろうが、少なくともご自身眼鏡を掛けられることが在ったのであろう。
花畑のお屋敷でも「菊合せ」が催されたのだろうか、次々に出される菊をメガネをはずしながら鑑賞され、素晴らしい作品にはお声を掛けられたのであろう。案外そんな機会に作られた句かもしれない。
負け菊をひとり見直す夕べかな 一茶