津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■宇土支藩初代・行孝公

2024-03-24 11:43:57 | ご挨拶

行孝公御一代之覺

一、寛永十四丁丑三月四日戌ノ刻、於肥後國八代三ノ丸御誕生。御氏神妙見宮也。御若名宮松。帯刀、其後丹後守。御名乗行孝。
  御母公慈廣院殿、元禄辛末六月十日御年八十三御逝去、末ノ年也。
       御法名雲岸性浄
一、御誕生之儀御妾腹故、三斎公御機嫌之程無御心許思召、御穏便也。依之村上金左衛門御預成、御部屋迄参上仕候者、長
  岡河内、佐方与左衛門、此両人迄折々御容躰奉伺候也。
一、同十六巳卯御歳之夏京都御登り、其節村上金左衛門母子共ニ、御醫師永井良安御供仕候。従 立允公萩原兼連御縁在之
  付、御預ケ被成候。(兼連卿ハ三斎公御甥也) 荻原殿御家来鈴鹿藤右衛門、同弟半之允御附成候。河嶋八之允無程御奉公仕候。

  一ヶ年程間有之、志水元英、御物よみの為召出、おのつから御奉公人罷成候。森権十郎御出入奉公之様毎度参上相勤、
  江戸へ御下り遊候は、必可被召出旨御意成、右之者共昼夜相勤申候也。人見丹蔵義其節御草履取ニ被召出、同前相勤、夫
  付江戸御下り已後権左衛門、丹蔵義被召出候也。
 (正保ニ年五月十一日、立允公逝去)

一、正保二乙酉閏五月十五日京都御發駕、同月廿五日江府御着座遊候。萩原殿ニハ七ケ年程成御座候。御供仕候者、河嶋八之
  允、志水元英、鈴鹿藤右衛門、其外末々迄都合拾壱人也。
一、御着之日堀田加賀守様御出、初宮松様御逢成候テ不大方御懇意也。其後 肥後守様モ御出逢成候也。
一、同年八月十八日、立允公御遺物首尾能献候也。其日、加賀守様初而宮松様御出成、殊之外之御馳走テ、御鞍置馬進候。
  尤右之趣肥後守様ヨリ 三斎公御飛脚ヲ以仰上候也。
 (正保ニ年十二月月ニ日、三斎公逝去)
一、御目見之義肥後守様ヨリ御願成候。翌(三)年戌ノ五月九日達上聞候處、肥後守願之義候間、御序次第御目見可仰付旨御
  座候由、則肥後守様、宮松様江被仰進、其已後五月十五日井門文三郎、興津弥五右衛門江被仰渡は、宮松様御目見之義、三斎様
  御遺言之御事御老中江被仰入候処、御目見之義ハ三斎様御存命之時ヨリ御願候御事候や、御老中御談合之分テハ仰出候事
  難成様思召候や、然は内上意迄為得候ハテハ不叶事之様候や、左様之義テ御延引ト、是は肥後守様後推量テ御座候。
  右之子細テ程延申トハ不存、何無心許可存ト思召候付、為安堵仰聞候由、御直両人之者 御意成候也。
一、同年六月十一日肥後守様ヨリ小笠原備前、田中左兵衛御使者進、今度三斎様仰置テ八代ヨリ差登せ候書付之通、御老中江被
  懸御目、御口上テモ仰入候は、内々肥後守様江被仰置タル儀テモ無之候。其上御墨付之在之仰置テモ無之候。御側居申
  候者共江被仰置タル様子ニテ御座候。如何可仕候や。又八代ハ堺目之儀付、宮松幼少之事候条、八代ハ家来長岡佐渡召置、宮
  松儀は中務跡三万石を宇土ト申所召置、如何可有御座候や、ト御談合成候は、下テハ如何ト思召候、然は 上意、肥後
  守内ヨリ三万石宮松江遣、所替之儀も奉得上意候分可仕旨、酒井讃岐守殿、松平伊豆守殿、阿部豊後守殿、此衆ヲ以仰渡候。
  御知行割之儀ハ肥後守様御帰国之上テ可仰付との御事也。
一、正保三丙戌九月、肥後守光利公八代之諸士同所於御城、長岡勘解由、庭亀之丞ヲ以仰渡候趣ハ、右之通御跡滅申候付、御入も
  多ク入不申候間、直御奉公仕度ト存候輩、又御暇申上度ト存候輩、何も心次第相極、書付上り申候。直御奉公申上候者共之
  子孫尓今御当家存之は此自分申候輩也。又御暇申上候諸士之分、別望無之候ハ、先地テ光利公召抱由付、何も在難
  由テ御奉公申上候、其内長岡河内、熊谷権太夫抔は存寄有之、他国罷出候。此時志方半兵衛御暇申上候故、願之通御暇下候
  得共、不届之子細在之付、行孝公ヨリ身上御構被成、熊本被召出候事も不被為成、御扶持方下一生埋レ罷在候也
一、宮松様御名之義、肥後守様加州様ト御相談之上、戌ノ七月帯刀ト御改成候也。 
一、戌ノ七月廿九日御知行三万石、宇土益城両軍の内進候旨、朝山修理、田中兵庫、興津作太夫方ヨリ佐方与左衛門方、以
  御帳引渡申候也。
一、同戌ノ八月四日両上様帯刀様初而御目見遊候。殊之外御首尾宜候由。御目見之節は前日阿部對馬守様ヨリ仰渡候也。
一、右御目見之節 家光公公方様御太刀一腰、御時服五ツ、家綱公大納言様御太刀一腰、御時服三
ツ、御老中方銀馬代、御時服ニツ宛進候也。
一、慶安四辛卯四月廿日 大猷院様御他界付、日光山御参詣被成候也。
一、同年之冬上野并日光山御佛殿石燈籠ニ基ツゝ献候也。
一、同年十月中目黒野屋敷御求成候也。
一、承應元壬辰八月十一日御入部、御十六歳、御半元服テ御下り成、翌巳ノ年御参勤御元服也。
一、同ニ癸巳十二月廿八日御官位仰付、御名丹後守様と御改。右ノ節御所司ノ御奉書之写。
     細川丹後守諸大夫 仰付候間口
     宣之儀傳奏衆被申入相調候様尤候
      恐々謹言
      承應二年       阿部豊後守
       十二月廿八日        信秋
                 松平伊豆守
                     信綱
                 酒井雅楽頭
                     忠清
       板倉周防守殿

   (以降の事績については記述なし)

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■「高瀬舟」を読む

2024-03-24 07:07:11 | 書籍・読書

 数十年ぶりに鴎外の「高瀬舟」を青空文庫で読んだ。この小説は史伝小説であり、参考とされたのは「興津弥五右衛門の遺書」同様、神沢杜口の「翁草」である。

 病の床にあった弟が、剃刀で喉笛をつき自殺を図る。苦しみ死にきれずにいる弟は兄の喜助に手助けを乞い死んでいく。その場を見た者がおり捕まえられる。
そして遠島処分を受け「高瀬舟」にのり川を下っていく中で、同心の庄兵衛はそのいきさつを知り、死に苦しむ弟に手を差し伸べたことが殺人となるのかと自らに問いかける。
そして、お上が決めたことは間違いないのだろうと納得する。

 ずいぶん昔、森茉莉さんのエッセイ「父の帽子」を読んだが、その中に「注射」という項があり、幼いころ百日咳にかかり、父鴎外が医師のすすめにより「安楽死」を考えたという。
兄と揃ってり患しているが、兄は死んでしまいそれを受けてのことであろう。岳父から叱られ思いとどまると、数日後には快気したという話である。
鴎外は軍医総監迄上り詰めた医者であり、最先端の医学の知識を有していた。当時は「安楽死」が許容されていたらしい。「高瀬舟」も主人公・庄兵衛に託して、その「安楽死」について問を投げかけているのだろう。切ない内容だが、鴎外は良い題材を「翁草」から求めたものだ。

 

 

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■熊本城天守閣からの展望

2024-03-23 14:04:59 | 熊本

 数日前の熊本日々新聞に、熊本市役所の新庁舎建築について、跡地(現市役所)の高さ制限の緩和を求める声がその筋の業界から湧き出しているという。
熊本城周辺市域は「熊本城特別区域」とする高さ制限地域があり「海抜50mを超えないこと」という特別規定がある。
先の話では、熊本市役所の改築は現在地では行われないことが前提となる議論であり、今頃こういう報道があるということは、その線で事は動いているのだろう。
考えてみると、現在地での建て替えとなると、仮庁舎の借り受け又は建設が伴うから、別の場所で新庁舎を建て、現庁舎あとはその後解体するというのが経費もかからず良いことは理解できる。
もしくは早々に明け渡して、新たな商業施設を迎えるという一手かもしれない。
政令指定都市としては、本格的なホテルの建設などが望まれるが、TSMCの進出により沸騰している熊本としては、早い時期にその手当てをして計画に進みたいというのはその筋の方々の思惑だろう。
いくつかの候補地が示されているが、さてどこに決定するのか大変興味深い。

 熊本城特別区域とは、熊本城天守閣と同じ高さと聞くが、最上階からの眺望が遮られることがないようにとのことである。
かっては周辺地から遠望できた熊本城の雄姿は、よほど見つけて回らない限り見いだせない。
申請がなされれば、OK が出るのは間違いないだろう。熊本城からの展望も見納めが近いのではないだろうか。
老い先短い爺様としては、足腰がまだ丈夫な時に史料片手にじっくり熊本城散策をしたいと念じている。
桜の季節が近い。花見て一杯も又一興である。

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■慶長・寛永期の文化人

2024-03-23 08:40:52 | 人物

 これはもう、単なる隙つぶしに他ならない。必ずしも慶長・寛永期とは限らないが、禁裏や時の権力者と細川家との関係を略図にしてみた。
それでも一応資料を見ながらのことだから、例えば後陽成帝は三宮・後水尾帝には譲位したくなく、弟宮(八条宮)を望まれたとか、東福門
院の入内に当たっての徳川家のあまりにもひどい行動などを知ることになる。
細川家に関しても、幽齋の田邊城解放や八条宮の古今伝授など、後陽成天皇の強い意向があったこと、また光尚室の逝去後、八条宮家との結
婚話があったことなどを考えると、略系図の一本の線はいろいろの事柄や、当事者の心情などが絡み大変面白い。
綱利以降、徳川家周辺との婚姻が見られるが、三斎忠興の思いからは遠いものとなっていく。

東福門院と細川萬を朱書きにしたのは、その着物道楽によって京都の織物文化が昇華したという寛永文化の一面をあらわしたかったが故である。

          三宮           すがのみや・つぐひと
+ーーー後陽成天皇ーーーーーーー後水尾天皇ーーーーーーーーーーーーーーーー素鵞宮・紹仁
|              ‖           ⇩
|              ‖ーーーーー明生天皇===後光明天皇 
| 徳川家康ーーーーーーーーー秀忠   ‖
|          ‖ーーーーー和子(東福門院) 
| 織田信長ーーーお市ーーー

+ーーー八条宮智仁親王ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ●
   古今伝授               ↓(結婚話が持ち上がったが立ち消えとなったー天草島原の乱・忠利の死)
+ーーー細川藤孝 ーーー+ーーー忠興ーーー+ーー忠利ーーー光尚
|       |        |               ‖
|       |        +ーーー  万      ‖
|       |            ‖ーーー弥々(男子出生するも死去・後男子も死去)
|       |      烏丸光廣ーーー光賢
|       |
|       +ーーー伊也
| 吉田神道      ‖ーーーー萩原兼従(豊国廟初代社務職)
| 吉田兼見ーーーーーーー兼治
| 兼見卿記著者   慶長18年(1613年)、後陽成上皇に神道を講ず。

+ーーー ●
   ‖
  土御門久脩
 

 

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■小国黒川(温泉)入湯の効用

2024-03-22 10:13:14 | 熊本

 かってはひなびた温泉郷であった奥阿蘇の黒川温泉が有名になったのは、そう古い話ではない。
カリスマと言われた後藤哲也氏の指導の下に、黒川温泉郷がテーマを一つにして今日の名声を勝ち取ったのは1900年代後半のことである。
そんな温泉郷だが、いつのころからお湯が出ていたのだろうか?言い伝えとして次のような話が残る。

 いつの頃か、豊後の中津留に住む貧しい塩売りを生業とする若者・甚吉には、病気で寝たきりの父親がいるが、その父親が瓜をたべたい
という。金がない甚吉は思いあまって、商売ものの塩をお地蔵様にお供えした後、瓜畑に入り瓜を盗む。甚吉は地主に見つかり首をはねら
れてしまうが、落ちたのは身代わりとなられたお地蔵様の首だったという。

 肥後藩のある人物が、このお地蔵様の首を肥後に持ち帰り供養をしようと考えるが、その帰途黒川に差し掛かった時、お地蔵さまは急に
重くなり、この地に祭ってくれと仰った。
そこで黒川の人たちが御堂を建立してお祀りすると、その場所から温泉が湧き出たと伝わる。
「黒川地蔵尊」として、今も大切に祭られている。

 渡邊玄察が著した「拾集物語」(渡辺玄察日記)に次のような記事がみえる。
もうこの時期には整備された入湯施設があったようだ。地獄という湯溜まりから薬湯が流れ下り、岩に当たるなどして柔らかなお湯となる
と「頭から足までずいを洗い落とす」という。霊験あらたかな温泉効用である。皆様もどうぞお出でまっせ。

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 一、同(元禄)六みつのと酉の年 
     此年之三月廿二日に阿蘇殿へ参上申候處に明る廿三日より小國黒川の湯御入湯被成候とて御夫婦被遊御出候に被召連
     御供仕候て罷越三廻り二十一(?)日入湯仕候 彼黒川の湯は湯坪よりもちごくと申候ゆの川有之候 其湯の川の湯薬
     にて候ゆながれ候故いわいしにあたりやわらかに湯がなり候に付薬にて候 偖又湯川にてうち流し申候故にあたまか
     ら足迄ずいをあらひとをす道理にて候 もし/\黒川の湯に行候人など有之候時のために申遣候

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■忠興五男・立孝について(3-了)

2024-03-22 07:00:51 | 人物

  (前出、東右近太夫、一万石)
一、長岡河内義ハ三斎様御存生之内如何様共御奉公之趣、御頼成候。立允様なき跡ニ被為成候は、一入御老躰之御身候ヘハ、御朦氣之所
  御察成、是段別而無御心許思召候との御事候。宮松様御事御頼成度思召候得共、三斎様江之御奉公トひとつにハ難成事ニ思召候
  との仰置也。
一、立允公は三万石之御格ニテ御在府也。常々御家老志方半兵衛相詰申候所、此節八代罷在頭立候者少々相詰候得共、万事御用向は池田弥
  八郎、井門文三郎両人江被仰付候也。
一、八代文三郎不罷下内、御遺言之御様子、御家中共如何無心元可存と察候付、早飛脚ヲ以右之趣文三郎より与左衛門、半兵衛、主膳
  方申遣候。此段直申渡候ハ面不叶義候得共、公儀江被指上候物之儀付、滞流仰付候。其内各中無心元可存と如斯候由委細申遣候。
  追付肥後守様より御暇下次第罷下、直可申渡候と申遣候。然所主膳は其内江戸へ参候付、文三郎直申渡候。相残両人は連判ニ而
  返答在之、則与左衛門自筆ニテ奉畏候との義申越候也。
一、閏五月十日堀田加賀守御出下候様仰進、即刻御出、御直宮松様御事御頼成、其上近年御奉公御出成候此かた、諸事御
  志之儀共御忘不成候由、様々御禮共仰上、其上ニ而従信長公 三斎公拝領、数陳御吉礼(例)之御旄、是ハ右之仰立ニテ加州様江被
  進候御遺物二テハ無之候。数年御心入之御礼ニテ候。御遺物は一色(式)仰置候間、御死骸井門文三郎持参仕候様申付置候との御事也。
  其後、文三郎手前之義久敷奉公仕、有馬之刻首尾好相勤候。已来御見知下置様との御事ニテ、則加州様御相應之御挨拶、扨々御病氣
  甚敷候處慥成義共、常々御理知義(律儀)程御座候。旄之儀は已後御子息進入申ニテ可有御座、抔と仰候。サテ立允様御寝成候所ヲ
  御足之裏迄御さすり成候得は、立允様加州様之御手ヲ御いただき成、忝思召候段仰候所、加州様文三郎へ仰聞候て、あれ程之御
  病氣慥成事と御感成候。其後御暇乞、御落涙ニテ漸御立成候也。
一、宮松様ハは其節御九歳也。京都萩原兼連卿江被成御座候。立允公御大切之段、井門文三郎方ヨリ追々申上、依之閏五月十五日京都御立
   被成、同月廿五日江戸御着成候。
一、御骨無程八代御下シ被成候様と従 肥後守様御意付、餘宮内、川口新九郎、其外御侍共末々迄大勢御供仕候。江戸差立候御日限不
  分明候。大方閏五月末か。
    御骨八代御下り、初は洞家泰岩寺ニ被成御座候。其後同派久岸寺御移成候也。於宇土御寺宗功寺之御作事、慶安元戌子十一月廿
    七日出来、御移成候。住持不哲、御寺領百三拾石、万治四辛丑宮ノ庄村之内轟山ニ行孝公御見立、御寺引ヶ御造営有之、同年十月
    十八日御移成候也。山号今年ヨリ行孝公思召ニテ三車山ト号、隠元禅師手跡也。寛文十庚戌年ヨリ碩翁入院、貞享ニ乙丑年ヨリ御寺
    号泰雲寺改、ガクハ綱利公御筆也。
一、追腹之者四人也。山下太郎兵衛、河野久左衛門、佐々木八兵衛、此三人は閏五月十一日之昼切腹仕候也。矢嶋權三郎義ハ御骨之御供ニテ
  罷下り、於八代切腹仕候也。
一、御病中肥後守様、稲葉能登守様、切々御見舞、御懇意也。堀田加賀守様別御心入也。御逝去七八日前ヨリ表は大勢之御客、松平阿波守
  様、森内記様切々御出、御心入候也。
一、御醫師、初内田玄勝、二番半井喜庵、其後養安院、盛方院、壽命院、五雲子、板坂朴斎、御薬召上候也。
一、右之節圓通院様(生母)、惠照院様(夫人)、長命様(嫡女)、慈廣院様(嫡男・行孝生母)愛宕下御屋敷ニ被成御座候也。
一、御病中於八代承り、即時江戸罷越候者共、長岡河内、福地主膳、佐方源助、上羽又右衛門、村上金右衛門、守田与惣右衛門、清田与三
  右衛門是ハ刑部様(同母弟)ヨリ為御見廻差越候。右之内河内、主膳、又右衛門、与三右衛門、此者共ハ江戸罷越候。守田義は御奉
  公人ニテハ無之、御病中之義承り罷越候也。村上、佐方義は駿州江尻テ御骨上り候ヲ奉見、夫ヨリ御供テ御国参候也。
     公方様家光公 百矢 幽齋公如古法仰付、矧手昔之名人也。古作之根色也。
     大納言家綱公    作之御鞍鐙。
     肥後守様   にしきの御羽織、和泉守ノ御脇差。
     堀田加賀守様 正宗御小脇指、此正宗ハ忠利公ヨリ進候御道具也。
  右之通仰置候也。
一、有時立允公堀田加州公仰候は、御無官二テハ如何敷候。諸太夫抔は罷成申間敷義ニ而も無之候間、御望思召候ハ(ラハゝ)取持可申
  由也。立允公御望無之とのご挨拶ニテ候故相止申候由候。立允公御心底ハ、細川之御家御先代ヨリ終諸太夫無之、輕キ義と思召候。
  自然侍従ニテ候は御望思召候得共、光利公さへ侍従故、御望成候事中々以及難成義故、御無官ニテ候也。
  立允公御逝去已後御影出来申候。長上下ニテ付見分如何敷、何とそ御贈官ニテ御装束ニ成度由、行孝公於上方公家衆モ御内談遊候へ共、是又御内證にてハ不為成由付、其後青襖御改、狩野養卜ニ被仰付圖之候也。
     〇寛永十五戊寅ヨリ寶暦七丁丑年迄百二十年成候也。
     〇正保二年乙酉ノ年八代ヨリ宇土御所替寶暦七丁丑年迄百十三年成候也。

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■幕府と戦った天皇

2024-03-21 22:39:49 | 徒然

 焼酎片手にTVをつけチャンネルをカチャカチャやっていたら、なにやら「後水尾天皇」と聞こえる。
何?と思ってよくよく眺めてみたら、「BS朝日 あなたの知らない京都旅~1200年の物語~「幕府と戦った天皇」という、中村雅俊をナビゲーターとする番組だった。
今私は、熊倉功夫氏著、忠蒙ん子の「後水尾天皇」を読んでいる真最中である。 4月の熊本史談会例会でお話をする機会を与えられたが、この後水尾天皇に触れなければならないからだ。

 二条城行幸を受け入れながら、東福門院和子の子・明生天皇に後を託す形で譲位したのは、後水尾天皇の確固たる幕府への抵抗である。
隆慶一郎著「花と火の帝」は私の愛読書だが、幕府の後水尾帝に対する干渉は、余りにもひどかった。
隆氏はその才能をフルに発揮されてこの名著を世に送り出し、この世を去られた。
これは小説だから仮想の世界ではあるのだが、徳川の後水尾帝に対する仕打ちは異常とも思える。
細川忠興はその異常をかぎつけて、息・忠利に報告の書簡を残している。

 TVの解説を聞くと、退位した後水尾上皇は幕府から多大な援助を受け、寛永文化の昇華にこれを費やしたという。負けるが勝ちのその成果が修学院離宮や圓通寺の創建である。圓通寺に中村雅俊氏は足を運び、比叡山を借景とした御庭を前にして、感慨をあたらにする。
ご住職のご努力により8㌔はなれた比叡山の間に遮るものがない素晴らしい景色がある。景観条例がこの景色を守っている。後水尾上皇が御覧になった景色がそのまま残されている。

 片手に持っていた焼酎のグラスはテーブルの上に置き、聞き漏らすまいと必死で拝聴した。

日頃の行いが良いと??、偶然を偶然とせぬ出会いをもたらしてくれる。感謝・・

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■宇土支藩11代・立則公書簡

2024-03-21 10:36:14 | オークション

    1649【真作】 肥後宇土藩主 細川立則 佐々木顕発宛書状 江戸後期の大名 熊            

    正月の定例の挨拶状である。立則は宇土細川家の11代だが、嘉永4年に父・行芬の病気により跡式相続をしている。
宛先の佐々木顕発はその履歴が誠に不思議な人物で、一介の旗本の家来から御家人ー旗本となり、勘定奉行・町奉行・外国奉行
へと大出世をした人物として知られる。

立則は文久2年に隠居しているから、佐々木顕発はその時期すでに奈良奉行になっており、以降大阪町奉行・小普請奉行となり、
一時期反井伊直弼派で免職となり、その後徒頭・作事奉行となっている。町奉行・外国奉行となられたのは立則の隠居後である。

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■オタンチン・パレオロガス

2024-03-21 07:13:59 | 書籍・読書

 漱石が新婚早々寝坊癖で起きられない鏡子夫人に言い放った言葉で有名である。
つまりこの漱石先生の造語は熊本に於いて明治29年に誕生したことによる。

鏡子夫人の著「漱石の思い出」によると、「オタンチン」は判るが「パレオロガス」が判らないので漱石に聞くが笑って教えてくれないからと、
訪ねてくる人に片っ端から尋ねている。


 この言葉は、「吾輩は猫である」に登場しているのは皆さまご存じのことであろう。多々良さんとのやり取りの中で出てきている。
漱石が熊本時代鏡子夫人をからかい続けたこの言葉は、漱石にとっては新婚時代の楽しい思い出として残っていたのだろう。

「吾輩は猫である」は鏡子夫人の記述によると、「この年(明治37年)の暮れごろからどう気が向いたものか、突然物を書き初めました。」と
あり、その「吾輩は猫である」がホトトギスの正月号に連載が始まるや大評判を得たという。
全てを書き上げたのは、39年の八月に11回を発表しているが「オタンチン・パレゴロノス」が登場しているのは、七月の第5回分に掲載されている。

熊本時代に鏡子夫人をからかい気味に発した言葉は、10年の歳月を経過して名著「吾輩は猫である」で復活を遂げた。

 「パレゴロノス」とは賢明な皆様はすでにご存じの通りの、ローマ帝国の最後の皇帝コンスタンチン・パレオロガスのことである。
江戸っ子で洒落ッ気がある漱石先生は「コンスタンチン」を「オタンチン」にしたことは容易に想像がつく。

なんで私がこんな皆さんが良くご承知の話を取り上げているかというと、「鏡子夫人は何時このことをお知りになったのだろうか」という素朴な
疑問からである。

鏡子夫人の孫娘(半藤真利子氏)聟・半藤一利氏の「漱石先生ぞな、もし」にもこの話は取り上げられているが、実は半藤氏もこの言葉がどこから
きているのかはご存じなかったとされる。
そうすると、鏡子夫人もご存じないままだったのかもしれない。
何方かご承知であればご教示いただきたいものである。

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■忠興五男・立孝について(2)

2024-03-20 06:30:42 | 人物

一、有馬ヨリ御開陳已後越中様立允公仰上候は、今度於有馬表肥後手之内ニテ本丸之一番乗は立允ニテ御座候。此段急度御吟味
  下候様ニト度々仰上候得共、忠利公御内證ニテノ思召ハ、先八代御一手之儀は三斎公御人数ニテ候所、為御陳代立允公御
  出陳之御事ニ候得は、八代ハ何事にても各別ト計仰、熊本トひとつ不被遊候。是ハ偏ニ對 三斎公ニ御遠慮之由、若立允
  公ヲ一番乗ト御定成候テハ、益田弥一右衛門一番乗ニ差合候由、立允公ヲ一番乗ニ御立不成段、御内證二テハ御不足ニ被
  召候由、併五月五日、忠利公御直之御意之趣候得は、一番乗御同前之御事也。
一、立允公未江戸御下向不成已前、有馬表之首尾之儀ハ達上聞候由、其子細は、 公方様於御前、有時御夜咄之砌、御伽之御衆
  中上意之趣、今度有馬ニテ首尾善悪之義大名分之者之事ハ不残御存遊候。自然未御目見不仕庶子なとノ内に勝タル者ハ、御
  目附之輩之咄二テハ不承候や、との 上意也。其節御前佐久間将監殿御入候が御請申上候は、松平右衛門佐庶子ニ黒田市正、
  細川越中守弟細川立允、只今法躰之躰ニ而罷在候。いまた御目見不仕候。是等ハ委細之儀不承候得共、今度有馬表之内二テハ殊
  之外勝申候由、御目附罷越候林丹波咄ニテ承候由、荒々言上在之候得ハ、上意、嘸三斎様悦可申との御事也。此趣ハ御目附
  之市橋三四郎殿ヨリ三斎公江被仰知候。是ハ三四郎殿常三斎公御心安付、御申越候様子ハ御隠密之儀ニテは無御座候得共、
  御前沙汰之儀御座候得は、御役儀對シ少々御遠慮にハ存候得共、是ハ武勇之儀ニテ各別目出度儀故、御知せ申進との御事也。
一、同十六已卯二月五日、立允公三斎公御隠居之御家督御譲成との御内意ニテ、吉日を撰、八代御本丸デイノ間ニテ御父子様
  御座成、壱番朽葉之御指物佐方与左衛門持出、二番御旄志方半兵衛持出、此御サイ(采)ハ従信長公、三斎様御拝領成、
  度々之御陳無越度、目出度旄なれハ御譲成候。サテ御樽肴、御銀五百枚、是ハ従 上様御拝領成候御銀也。長岡河内披露之、
  其御座ニテ御はやし仰つけ、御家中之侍不残御酒下候也。
     御旄進候時三斎様御意ハ、休無遣テモ不苦物なれど浪人ニテ不入もの也。越中ハ大名也。其方ゆづる、ト仰候也。
一、右之節三斎様御意ハ、御隠居領之内㝡前三万石進置、残テ三万七千石之儀ハ只今迄ハ如何様とも御定不成候。此分ヲ
  度立允公江被進、先代ヨリ之城付三千石御加成、都合七万石御譲成旨、三斎公御直ニ被仰渡候。依之御家督御譲遊奉教悦候
  由、御家中一同御祝儀申上候也。
     右之御意候へ共、立允公御心任曽テ不成候由、越中守忠利公肥後守光利公急度御極置不成候故、慥證據證人も無
     之、三斎公、立允公御逝去已後何角指支、行孝公七万石ハ相立不申、御父立允公初之御知行三万石計漸ニテ御拝領也。
一、右同日従 三斎公御使者長岡河内ヲ以、御者頭廿五人立允公御附成候、何河内召連、御本丸ニテ御目見仰付候。為御禮北
     ノ丸御出成御物頭共御目見、其役々三斎公江御直ニ被成御意候也。
一、同年之春於八代三斎公御意成候ハ、立允公御隠居之御家督御譲成候得ハ、思召被残候御事茂無之候。此上は江戸へ御願仰上、
  吉田永ク御逗留成、二度八代御下被成間敷、との思召ニテ、北ノ丸ヲ為明ヶ、御女中衆不残召連、吉田御上り遊候也。
     又御様子替り、翌年辰八代御下り、北ノ丸江被成御座候也。
一、同年五月五日立允公八代御立成、京吉田江被成御座候也。色御勝不成、是ヨリ御逝去マテ御食事御進兼、米ハスキト上り不申、
  粟類計召上、■(此字不明=月編ニ夏)ノ御煩也。依之吉田江暫御逗留、其内三斎公江戸御首尾御繕成、御左右次第御下可
  成由ニテ御待合成御座候所、江戸より御左右有之、八月二日吉田御発駕、木曽路御下成、同十三日江府御着、新馬場之中屋敷
   江三斎様ト御一所成御座候。御着前三斎公御作事仰付候也、此節ヨリ御名中務太輔ト御改成候也。同年冬 公儀家光公へ初
  御目見成四ヶ年御在府、同廿癸未年之春八代御下成候也。
    刑部興孝公三斎公為御證人永々御在府、愛宕下中屋敷御座候所、立允公卯ノ年江戸御越付、御代りニテ肥後御下り也。
    此時之御屋敷、
  上ハ七千坪有之、其後千五百坪    上屋敷ハ   龍ノ口。
  増、都合八千余坪有之由ナリ。    中屋敷ハ   愛宕ノ下。
  下ハ坪数不知。           下屋敷ハ   芝、只今新馬場邊也。
    白銀之御屋敷添地共  右新馬場之下屋敷、御用ニテ忠利公御代
    四万坪有之由。       揚り為替、白銀ノ御屋敷御拝領也
一、同年立允公江戸御下向付、御前様ニモ御同道也。同十八年辛巳六月五日御姫様御誕生。長命様ト奉号。立允公御逝去之時御前様
  御歳二十三、長命様御年五ツ也。御前様此時ヨリ恵照院様ト申候也。右ヨリ三ヶ年目、同四丁亥年惠照院様御年廿五、長命様御
  七歳之時御同道御上京、岩崎ト申所御屋敷御求成御座候也。惠照院様江従 光利公御合力三百石進候。御内用は行孝公ヨリ
  御合力也。貞享戊辰七月十四日御逝去、御年六十六。御法名惠照院殿月故宗印。
一、同十八辛巳家綱公御誕生。此節為御祝儀、従立允公信國御脇差一腰御献上、代金百貫、御使者熊谷権太夫。
一、正保元甲申春八代御發駕、江戸被成御座、段々
  公儀向之御首尾宜成御座候処、翌年酉ノ五月十二日ヨリ御煩付成、色々御療治尽候得共、無御快気、閏五月十一日卯ノ刻於
  愛宕下御屋敷、御歳三十一ニテ御逝去也。即夜祥雲寺ニテ御葬禮也。木翁御引導、御戒名清岩和尚御付候也。
  泰雲院殿立允宗功大居士。
一、御遺言ハ御逝去前日井門宗中文三郎江被仰置候事
    宮松様御事、肥後守御頼被成候事。
    公方様大納言様御献上物之事。
    肥後守様、堀田加州公江之御遺物等之事。
    有馬江御供仕候者共之儀、已後迄悪敷不成候様との段々仰置候也。  
      身上千石     千石     四百石
  右之節佐方与右衛門、志方半兵衛、福知主膳、此三人宮松様家老御頼成候間、物毎心まゝに御奉公難仕儀可有之候。然共三斎
  様御仕置之趣毛頭違輩(背)不仕様覚語(悟)相極、宮松様御奉公御頼成候との御事なり。

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■紫草

2024-03-19 12:58:44 | 熊本史談会
                    
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■黒鍬衆は隠密にては非ず

2024-03-19 07:05:53 | 歴史

 「くまもと城下の地名」を読んでいたら、小崎龍也先生の解説がある。
   ・江戸城に黒鍬組がおかれた。
   ・日頃は城内の庭や庭木、道路の整備・・一方では「隠密」仕事
             ⇩
       その人たちが住んだのが黒鍬町
 その黒鍬町は、細川邸下屋敷がある白金の隣町・白金1丁目に大きく広がっていた。(㉒目黒白金図)

隠密と言えば服部半蔵が居る。吉宗が将軍になったときは、紀州から連れてきた者を御庭番としてこれを大いに使ったと言われている。
黒鍬衆=隠密というのはいかがだろうか?

 私は小崎先生のお説にはいささか異議を唱えたい。黒鍬衆の発案者(?)は、松井康之だと言われている。
綿考輯録には、天正十八年松井康之が、「荊棘が生い茂り、堀溝多く、石高くして難儀なりしに」、鍬を数多持ち込んで云々とある。
そして、「此時より陳具に多くの鍬を持せられ候後ニ家康公も御感にて畝鍬之衆を御定被成候由」とある。
私は、黒鍬衆=工兵だと理解している。石垣の整備や道路・河川の整備、新地開発などが仕事であったろう。
小崎先生が言われる島原城に忍び込んだ隠密の話は、「忍びの者」であって、これは暫くの間は氏名も明らかであったが、のちには無くなっている。
後に「外聞」という役職があるが、是は隠密とは言えず、各地を回る情報収集者とでもいうべきか。その仕事のことを「立ち聞き」といったようだ。
熊本の黒鍬町は、上通郵便局の裏手の路地あたりをいう。多くの「工兵」が住んだのであろう。
さぞかし、日焼けしたたくましい人たちが行き来していたのであろう。

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■春の小川~~♩♩

2024-03-18 12:42:03 | 徒然

 私の部屋から健軍川が真下に見えるのだが、最近の数日は水無川に水が戻って小さな流れになっている。
2週間ほど前雨が降った折には、濁流となって水位が1.5mくらいは上がったのではないか。
その時水をかぶったはずの菜の花が川底の両岸に花が真っ盛りである。
近くを歩いてみると水がチョロチョロ流れてまさに「春の小川はさらさら行くよ~~」という風情で、思わず小魚でもいないかしらとのぞき込んだりする。
100mほど上流に堰があり、堰の下流は天気が良いとたちまち枯れ川になってしまうから、魚はさすがに見つけ出せない。
それでも、江津湖からだと思うが、アオサギが飛んできたり、カモの親子が少ない水の流れをたどってこのあたりまで遣ってくる。

 今日は朝から薬を貰いに病院行、その帰り道「春の小川・・」と口をついて出てきたが、メロディーは「隅田川」になっていて「春の小川の隅田川~~」となり、口をつぐんでしまった。
隅田川は小川じゃないよな・・・しばらくして爺様の頭の回路がつながって、「春のうららの隅田川」となった次第だが、ついでに、この歌の元・出所が「源氏物語」であるという話を思い出した。
半藤一利氏の著書(見つけ出せないでいるが)では、源氏物語の訳者・田辺聖子氏がこの教えてくれたそうだが、どこに書いてあるかは教えてくれず、氏はずいぶん時間をかけて源氏物語を読み「胡蝶」の巻でそれらしい歌「春の日のうららにさして行く船は竿も花と散りける」を発見されたという。私も源氏物語に親しんでいるが、胡蝶にたどり着くまでが大変だ。
つまり、「隅田川」の歌詞の元は、紫式部ということだろう。

我家の真下を流れる健軍川も今は「春の小川」の風情で、隅田川に負けず劣らず「春うらら」である。

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■忠興五男・立孝について(1)

2024-03-18 06:37:52 | 人物

  井門家文書「三代記」より、宇土支藩始祖細川立孝公の事

一、元和元乙卯七月十五日於豊前小倉御誕生、御氏神至津八幡成、御芳名・坊、其後立允、中務大輔、御名乗立孝。御母公圓通院殿、清田主計
  鎮乗娘也、寛文三癸卯七月二日於熊本御逝去也、(墓地:熊本立田・泰勝寺塔頭慈眼庵跡・細川刑部家墓地内)
一、同七辛酉春、三斎公御家督越中守忠利公御譲成、豊前中津御隠居、其節従 三斎公御坊様御部屋領トシテ御知行五千石進候也。
  御隠居領ノ高ハ拾弐万石也。
一、寛永元甲子十二月、三斎公御坊様御同道御発駕、年明江戸御着成候也。此時何ヶ年之御在府ニ而候や、不相知候事。
一、立允公御幼年之比ヨリ、城刕愛岩(宕)山真言宗福壽院御弟子ニ被為成、遂御出家、御名少名坊申候。登山成ニ三年勤学成為成候所、
  元来御心底ヨリ不發御出家故、御盛長随イ御出家御嫌ニ被為成、御学文御心不染、小倉御下向成、夫ヨリ御還俗可成御容躰之段 
  三斎公達御聞、殊外御立腹ニテ、既御生害ニ茂仰付御様子候処、御一門其外御譜代之輩心逢添、方々置ヒソカニ御暮成候所、
  其後右之衆中御断在之し所、御父子之御間柄と申、常々御愛子之御事故、御還俗之儀御免ニテ、先御唱僧ニテ被成御座御名立允御改、其後
  御對顔成候由。御還俗御免ニテ世廣ク被為成候事ハ、寛永七癸午御歳十六申伝候也。
一、同九壬申十月四日、肥後國越中守忠利公御拝領、同十二月八代江被成御座、其節 三斎公御隠居領三万七千石也。立允公三万石。
      後号立白
  御舎弟刑部興孝公二万五千石進候也。都合之高九万弐千石也。
一、同十三丙子冬於八代立允公御婚禮相整候也。御前様は五條中納言為適卿之御姫君也。御名鶴、後恵照院殿。御前様十四歳、立允公廿ニ歳也。
一、同十四丁丑三月四日、行孝公御誕生也。
一、同年十二月三日、肥後國天草一揆付彼地立允公御出陳、其後肥前有馬表御越成、翌年寅ノ二月廿七日、有馬城責之節、立允公大手之
  石垣一番御着成御踏監、御昇ヲモ石垣ノ上ニ指揚、熊本御先手ヨリモ御行越成無比類御働遊候也。同三月四日八代御開陳也。
  御歳廿四。惣御人数初千弐百余召連筈之所、三斎公京吉田ヨリ仰進候ハ、御人数多ク召連候テハ、御領地御百姓痛可申候間、御減少
  成可然旨付、都合八百人余ニテ御出陳也。城乗ノ刻、御家来共御側ヲ不離、初中後御供仕候者、或討死手負等之儀、委細別紙在之也。
      初中後御供相働候者
  志方半兵衛  熊谷権太夫  熊谷慎太郎  神足少五郎  芦田十左衛門  佐方源助
  井門文三郎  右之外具足着七人也。此外御歩行以下十四人。都合廿壱人也。
    惣人数之内
         手負十八人  討死八人  手負討死合廿六人也
一、有馬落城已後於彼地、立允公肥後手御目附馬場三郎兵衛殿ヨリ以御使者、今度骨折故致落城目出度存候。御手柄可申達様無御座候。
  先為御祝儀以使者申入候由。為御礼三浦新右衛門遣候所、三郎左衛門殿召出御直ニ被仰候は、此度之御働御若氣之様乍推量存候。
  然共馬印ヲ茂諸手一番ニ被押立御乗候事、嘸三斎老御満足可成候。此度之御働何可達 上聞候由、新左衛門ニ被仰聞候也。
一、御目附牧野傳蔵殿御手ヲ負候付御見廻右同人遣候所、御同前之御返答也。
一、松平伊豆守殿御事為上使有馬表御下向、殊三斎公常々御入魂付、有馬ニテ 立允公御儀、伊豆守殿一入何角御心入之由。伊豆守殿
  之使番奥村権之允、関屋四郎兵衛、長谷川源右衛門此三人於有馬戦場伊豆守殿御下知諸手ヲ見廻り申候所、流尾筋罷越立允
  公御側近ク罷有、先後之御様躰具見届罷帰、立允公之御働鬼神之様、委細伊豆守殿申達候由、夫故能御存知也。
一、馬場三郎左衛門殿松平伊豆守殿御越御達候ハ、此度細川立允働無比類儀候。私見届候と、仰候得は、伊豆守殿被仰候は、立允
  働之儀我等直見届申候。其上家来共三人一所居申、士衆ヲ承届申候。扨々手柄存候由仰候。三郎左衛門殿も押返し/\御申候。
  為御礼仰入可然由、伊豆守殿御側之衆下村傳蔵、井関長左衛門内意申聞候也。
一、忠利公伊豆守殿御出成候節、戸田左門殿仰候は、此度之城乗、越中殿手ヨリ本丸乗崩シ申候中ニは、立允一番ニ被乗候儀無比類、
  ト仰候ヘハ、伊豆守殿仰候ハ、諸手之中ニテハ越中殿御乗崩候。越中殿内二テハ立允一番乗、馬印迄一番のセ申候儀、前後
  無残所働、ト仰候。伊豆守殿、左門殿御両人共忠利公右之御挨拶之由、是又伊豆守殿御側衆傳蔵、長左衛門内意申聞候也。
一、其後松平伊豆守殿より立允公以御使者御口上、今度之御働無残所御首尾目出度存候。当時對御役儀何トヤラン如何と存候得共、
  連々 三斎公御心入共候得は、別珍重存候故、御祝儀迄此刀進入申候由也。備前元重弐尺三寸代金拾枚。
一、同十五戊寅五月五日立允公熊本御花畑御出、越中守様御前御出之処、色々御馳走有之、立允公御意成候は、今度有馬ニテ城乗之刻、
  其方働之様子具聞届無残所、昇一番ますかた附、自分之付所迄石垣下申所持裁判共、さりとハ家之重宝不過之候。
  已来は先手其方頼可申候。先々祝儀迄此政宗脇差ハ肥後國為拝領候時分下置、随分目出度脇差ニテ候故送り申候。
  此度之褒美ト申ニテハ無之候。心祝迄相送候由仰、其上献々ノ御祝也。其跡ニテ大組頭其外御褒美等下也。
      右立允御出府前、有馬ノ義存タル者遣候様トノ御事ニテ、志方半兵衛、山中清十郎被差出、
      段々従越中守様之御尋ニテ申上候也。

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■志方一族略系図

2024-03-17 09:03:19 | ご挨拶

「手討達之扣-(22)種々四件」において、「志方半兵衛儀去年四月組之足軽橋本実右衛門を致手討候一件」という事件があり「其身未タ屈服不致内罪名を以御給扶持差放彼是卒忽之次第ニ付當御役被差除」とあるが、この人物の特定に至らない。そこで枝葉を大いに広げている志方一族を略系図にしてみた。

 志方家は、「赤松則祐五代孫で志方右衛門尉・繁広が、天正六年織田信忠志方城を落され討死、一子六助(之吉)二歳ニ成候を家之子乳母ニいたかせ忍出、縁者たるにより丹波の赤井悪右衛門方ニ連越、其後丹後国長生院と申寺俗縁有之ニ十五歳迄居候内、心操有之段忠興君被聞召、十七歳之時被召出御知行五十石拝領御昇頭被仰付、其後御加増百石被下、所々之御陳相勤、中ニも於高麗深手負、御懇之御意ニ而御直ニ御薬拝領、関ヶ原・大坂ニも右之役儀相勤、八代ニも御供仕、殊之外御懇意ニ而、寛永二十年病死」とあり、一族ではこの六助を初代としている。                                  (綿考輯録・巻十六記事を編集)

              
志方六助(之吉)ーーー+
         |
 +ーーーーーーーーーーーーーーー+
 |
 +ーーー半兵衛ーーー+ーーー半右衛門ーーー弥五右衛門ーーー弥次兵衛・之実ーーー清蔵・之時ーーー弥次兵衛・春武ーーー弥左衛門ーーー逸次ーーー蘭八(半右衛門)ーーー(9)

 |       |  ーーー(9)慎八(半兵衛)ーーー午二郎(半兵衛・逸次)             志方逸次【丹後以来】(南東52-9)
   |                |
   |                 +ーーー半七ーーー半七・之高(半兵衛)ーーー半七(半弥、半兵衛・之経)ーーー弥十郎ーーー左内(半兵衛)ーーー司馬助ーーー(7)
   |       |  ーーー(7)千久万(弥左衛門)ーーー次郎彦(半弥)ーーー 勝之助(司馬助・仙太)  志方仙太【丹後以来】(南東52-11)

   |                 |
   |                 +ーーー十兵衛ーーー+ーーー十兵衛ーーー又次郎・之昌(之明、之克)ーーー千左衛門ーーー又次郎ーーー又勝(十兵衛)ーーー千左衛門ーーー軸人    
 |              |                                志方軸人【丹後以来】(南東52-10)

 |              |
   |                                     +ーーー玄求ーーー玄好ーーー玄育ーーー玄洞ーーー玄常ーーー玄節ーーー玄節(潜庵)ーーー柳臺
 |                                         志方柳臺【丹後以来】御医師(南東57-33 医)

 |
 +ーーー小左衛門ーーー五郎兵衛ーーー五郎兵衛ーーー半之允ーーー五郎兵衛ーーー弥七郎ーーー小左衛門ーーー寧(小左衛門・半之允)ーーー徳十郎(半之允・半)         
                                                志方 半【丹後以来】(南東52-12)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この家については、何処につながるのか現況不明である。

 志方嘉十郎  【丹後以来】 (南東52-13)
    1、嘉平次
    2、半内・之経(加平次)
    3、長平次・之辰  百石 御番方七番
    4、半(嘉平次・半内)  御番方・宮村典太組 高百石之御擬作
           天明五年正月:志方半内、是迄不奉願在宅付而、改メ在宅願之儀取遣之事
                          (熊本市史資料編第三編p253在宅願頭書)
    5、半三郎(嘉平次)
    6、重助(嘉十郎)  高百石之御擬作



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