熊本藩年表稿の頁をめくっていて、寛永17年7月19日「白川より川尻へ船通水道、開通工事予定あり」という「奉書」からの引用として紹介されている。
はたしてこの船通水道は開通したのだろうかという疑問が残っている。
実は堀内傳右衛門の「旦夕覚書」には、忠利の発案について米田監物が異議を唱え、忠利もその意見を取り入れ沙汰止みとなった旨の詳しい記述があるから、私もそう思ってきたがどうもそうでもないらしい。
■忠利公の土木事業「坪井川川底さらえと白川~加勢川(河尻)間水運計画」
平成29年11月に行われた「第33回・熊本大学付属図書館貴重資料展」の「近世熊本城の被災と修復」の解説目録に「25・白川から河尻への運河完成と高瀬舟」という解説が為されている。
寛永17年12月14日の奉書として、白川から川尻までの運河が翌年二月末に出来るとの普請奉行からの報告を受けて、「忠利は、川舟を一艘二月二十日頃には完成するように命じ(中略)阿部弥一右衛門を通じて奉行衆に命じた」とある。
堀内傳右衛門の話は何処に行った・・・???熊本藩年表稿には開通した旨の記事が見当たらない。
尤、忠利は18年の1月18日、八代の父・三齊の元を訪ね、その帰途足のしびれや、言語不通となった。
一時回復したが、3月17日にはついに還らぬ人となった。そんな一大事が起り記録するなどの話ではなかったのかもしれない。しかし奉行所の記録に乗せないという事はあるまい。
処が思いがけない史料が現れた。熊本大地震で南区の近見方面で地盤の液状化が起り、その対策のために技術検討委員会が設置され、その説明資料というものが作成されている。
川尻に在る大慈禅寺の文書の中に「大渡橋」を作るに当たっての建治二年(1276)の「義尹大渡橋勧縁疏」に、かっては白川と河尻を結ぶ河道があったことを示す記述が有り、その河道と思われる帯状の一帯が、近見地区の液状化と重なると解説している。
地盤調査の結果は、まさに河道であったことを示している。むかし白川と川尻の緑川がつながっていた可能性を示唆している。
更にこの報告書には「近世熊本城の被災と修復」の記事と同じものが引用されており、寛永17~18年の拡幅工事が完成した事は既成事実となっている。(但し完成したという確実な記事は無い)
その河道の跡とおもわれる井手が(巾一間、深さ一~二尺)であるから、高瀬舟が通る様に拡張したいというのが忠利の願いであった。
完成まじかと聞いて忠利はここを通るための高瀬舟の新造を指示している。
運河は完成したのだろう。いまでも河尻旧道にそって狭い水路が伺える。これがそうなのだろうか、とても幅を広げたとは思えないが・・・?
堀内傳右衛門の話は説得力ある話ととらえていたが、こうなるとその真偽のほどが怪しくなる。
永青文庫から確定的な文書の公開が待たれる。
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