鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.181『創主の命令が“いのち”とは?(2)』(12章:最終回)

2006年10月12日 | ヨハネ伝解読


(図は『聖書が面白いほどわかる本』中経文庫より)

                  

~~聖書を読むとき、福音を考えるとき、わたしたちはそこでの鉄則を常時意識しているのが理想です。

 ~~聖書の考えでは、われわれは、広大な創主王国(創造主が王として統治する王国、すなわち天国)の一角にある小さな暗闇(宇宙)の中に生きています。我々から見ると、我々の頭上遙かなところに宇宙の外郭があります。それを越えた外側に、広大な創主王国があって、宇宙を取り囲んでいる。

 こう語っているいま、そういう天国の中の暗闇にわれわれはいるのです。そういう創主王国が有り続けている。そういう感覚が意識に常駐することが理想なのです。

 天の創主王国を統治するのは王なる創造主から出た言葉であって、そこではそれが永遠の法である。その中の一角にあるこの「世」では、人間の作った(悪魔の影響下で)法でもって、統治がなされている。それでもって善悪を考え、適法、合法を考え、裁きをしている。そういうイメージです。

~~そういう「世」に創主の子イエスがやってきて、父であり天国の王である創造主の言葉をそのまま語る。だから彼がこの世に来て語っている言葉は、その創主王国の法そのものである。だが、「世」はその受け入れを拒否する。それを認めない。

~~「世」は一時的なものであって、将来消滅する。すると全空間が天国の法、すなわち、創造主から出た言葉によって統治され、裁かれる(最後の審判)ときが来る。

 この「ヨハネ伝」もそういう世界の中で我々は読んでいるわけです。著者ヨハネもこの意識を維持しつつ書いています。

                  

 では前回の続きを考えましょう。
聖句も同じです。

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=聖句=
 「わたしは自分の権威でこれを語っているのではありません。わたしをこの世に送られた父が、言うべきこと、語るべきことを私に命じられているのです。私はこの命令が永遠のいのちをもたらすことを知っています」(12章49~50節)
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 前回、徒弟制度における親方と弟子職人の関係を考えました。弟子は親方の言うことなす事の全てを「理解」することはできない。だから弟子なのですが、とにかく、将来成長するまではわからない。

 そのわからない親方の言動を身につけるには、それを命令と受け取って、素直に従うのがいい。そうして、親方に同化するのが親方の技能を“身につける”もっとも効率的な道だ、と申しました。

                  
 
 これは創造主と人間についても同じです。
 もともと、創主は全知者です。それが聖書の鉄則であり、イエスの教えの大前提であります。創主以外の存在が、創主の命ずることを全て理解しようと言うのは、聖書の前提に矛盾した話です。

 だから、創主の命令には、必ず、全部は理解できないところがある。イエスだってそうでした。マタイによる福音書によれば、イエスは、いわゆる大艱難の時が、「何時来るかは、創主だけが知っている、自分にはわからない」と言っています。

 「その日、その時は、だれも知らない。天の御使いたちも、また子(イエス自身のこと)も知らない。ただ父だけが知っておられる」(マタイによる福音書、24章36節)

    ---が、その聖句です。そういうところがイエスにおいてすらあるわけです。

                  

 されば、創主と一致度を高めるには、命令に従うという方法しかありません。この点、徒弟制度におけると同じです。一致度とは意識の一致度です。父なる創主以外の存在が、自らの意識を創主の意識に最も近いものにする方法、これは命令に従う以外にないのです。

                  

 では、意識が一致すればどうなるか。創主から放射されている「いのちエネルギー」はその存在の霊(意識体)に完全吸収されます。そういう状態が続きます。ということは、永遠にいのちを受け続けると言うことになる。これが永遠のいのちです。

 また、そういう人が病人に手を置けば、そこからいのちエネルギーが病人に向けて流出します。そうすれば、癒されるというのが道理です。いのちエネルギーというのは、創造主が物質を創造する際の源、原料というのが聖書の論理ですから。

                    

<物質はエネルギーの一形態>

 エネルギーと物質は相互に転化する。近代になってアインシュタインはこの法則を見出しました。エネルギーは物質になりうるし、物質もまたエネルギーに転化し得ます。

 そしてその根源形態はエネルギーの方である。アインシュタインはそれを「物質はエネルギーの一形態」という言葉で示しました。

 聖書の思想で行きますと、このエネルギーは、創造主から放射されている「いのちエネルギー」ということになります。

 このエネルギーが流れ込めば、病人の痛んだ身体細胞は更新されます。いたんだ細胞はエネルギーとなって昇華し、注入されたエネルギーが新しく完全な細胞に転化するとイメージしてもいいでしょう。

 これが創主による癒しの物理学的イメージです。これを「癒しは創主の光線」という外国の牧師さんもいます。その光線が通っていくようにするのがヒーラーの仕事だと。その方は多くの人を癒しておられます。この方に脳腫瘍を癒された日本人女性を春平太は知っています。

                  

(“癒し”はいのちエネルギーの流入による>

 こういうと次のような懸念が湧くかも知れませんね。いのちエネルギーが病人に流れ込んでいったら、手を置いた人のエネルギーが少なくなってしまうんではないか、と。確かに流出していけばそうなります。

 だが、その人の意識波動が創主の意識波動に似ていたらどうか。もう一方で、創主から放射され続けているいのちエネルギーが、この人の霊に大量に流入し、充電されていきます。だから、その貯蔵量は何時までも減少することはないわけです。

 これが「永遠のいのち」の意味です。どうして永遠に貯蔵量が豊富なままになるのか。創主の命令に行為を合わせるからです。それによって、創主以外の存在にとっては、出来うる最大の精神的同化を、行うから、ということになりますね。

                  

 イエスにとっては、そういう経過説明は不用でした。彼は、父なる創主の命令というのは、(それに従うことによって)永遠にいのちエネルギーを吸収させるためのチャンスでした。それはまた自分の資産ともなったわけです。

 創主がある人に命令を発するというのは、その人にとってはそういう資産をあたえてもらえる絶好の機会なんですね。イエスにとってはそのことが、あまりにも自明ですから、経過説明など要らなかったわけです。

 だから、「父の命令は永遠のいのち」と、一言で言った。そういうことになるでしょう。それにしても、こうしたイエスの言葉を何十年かたっても忘れずにいたヨハネという人も、ほんとうにすごいですね。

 まあ、聖書の思想では、それは聖霊が可能にしたのだ、ということになりますけれども。そのことは、これから(後の章に)出てきます。しかし、聖書というのは、すごい本ですね。こんな論理体系、人間が頭で考案するなんてありうるでしょうか。

 春平太は、ありえないと素直に思えるんですけどね。もうかなわない、バンザイです。春平太の頭が弱いだけかなあ・・・。

(12章・完)


                    


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