検討を始めましょう。
まず、創世記の18章を開きます。
「エホバ(主と表記されているのをエホバに戻します)はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた。・・・彼が目を上げてみると、3人の人が彼に向かって立っていた」(18章1~2節)
~~とあります。
エホバが3人なんておかしいですよね。それで読み進みますと22節に~~、
「その人たちはそこからソドムのほうへと進んでいった。アブラハムはまだ、エホバの前に立っていた」(18章22節)
~~とあります。
さらに19章に進みますと、
「その二人の御使いは夕暮れにソドムについた」(19章1節)
~~とあります。
どうも、3人のうちの2人(18章22節の「その人たち」)は、御使いであったようです。
彼らがソドムに向かったので、アブラハムの前にもう一人が残ったのですね。これがエホバです(22節)。そういうことになります。
このことからわかるのは、エホバは3人のうちの一人として、人の姿でアブラハムの前に現れていることです。
で、新約聖書の「ヨハネ伝」にポ~ンと飛びます。
1章にこうあります。
「創造主を見たものはまだひとりもいない。ただ父のわきにおられるひとり子の神が、創造主をあらわしたのである」(1章18節)
あれっ? おかしいですね。エホバが創造主だったら、これをアブラハムは目の前で見ていますよ。
なのに、ヨハネ伝では「創造主を見たものはまだひとりもいない」といっています。
ヨハネは福音書の著者であって、彼の言葉はモーセ(創世記の著者)ほどの権威はない?
だったらこれはどうでしょうか?
「父(創造主)から出たものだけが父を見たものです」(ヨハネによる福音書6章46節)
これはイエスの言葉です。
イエスは父なる創主を見たのは、自分だけだといっているのです。
この言葉を記しているのはヨハネですが、いくらなんでも記録間違いということはないでしょう。
エホバを「神様、神様」とお呼びのみなさん、これはどういうことでしょうか?
(続きます)