しばらくつれづれなるままに天使をみてきました。
結構、人間と共通するところがあるんですね。
考えてみれば、当たり前かも知れません。同じ被造霊として創られた2者ですからね。
その面では共通したところがあるはずです。
だけど、違うところもあります。
それらを人間と比較しながらみていったら、けっこうはっきりすること多いのではないか、と思えます。
<姿は似ている>
まず、姿形(すがたかたち)、これは似ているのではないでしょうか。
ただし、天使は霊で、変化しますからどこが似ているか、把握しづらいです。
だが、原型というのがあると思うんですね。
現在、過去、過去分詞と色々変化する英語に原型があるように。
その原型は、人間と同じだと春平太は解します。
頭が一つで、目が二つあって、手と足が二本ずつあって、二本の足で立って歩いて・・・・・といったように。
けれども「原型を人間と同じに創られた」と言ったら、人間中心の間違った解読になります。天使の方が先に作られているのですからね。人間の方が天使の原型に似せて作られた、ということになるはずです。
<天使はイエスの形に似せて>
では、天使の原型はどのように考え出されたかというと、これはイエスの原型に似せて創られた、と春平太は現時点では解しています。霊としてのイエスも、父なる創造主からその様な姿の霊として出た、分離したと考えられるのです。
イエスが最初です。天使は、創造霊であるイエスに仕える霊ですから、続いてイエスに似た形に作られたとしても、おかしくないですよね。
<創世記の「われわれ」も>
そうすると、「創世記」1章の次の聖句も、明確に解釈できるようになります。
「そして創造主は仰せられた。『われわれに似るように、我々のかたちに、人を創ろう』・・・」(創世記、1章27節)
この創造主はイエス(霊としての)です。そのことはヨハネ伝につなげるとわかってきます。
「この方(イエス)はもとから世におられ、世はこの方によって創られたのに、世はこの方を認知しなかった」(ヨハネによる福音書、1章10節)
では、イエスが「われわれに似るように」と言ったときの「イエス以外の存在」とは誰かというと、これが天使となるんですね。天使は創造主に仕える霊ですから。このときイエスに付き従っている天使がいたとしても不思議はないでしょう。
なお春平太は自分の解読が通説と違っていることをよく知っています。大多数は、「われわれ」を「父なる創主と子なるイエスと聖霊」だと言っています。すると「われわれのかたちに似せて」の「かたち」の解釈に困りますよね。困った結果、この「かたち」は「霊的な特質」だとか何とか言っています。
これは日本だけでなく、米国でも概してそうです。春平太が1年間身を置いた南部聖句主義地域の教会でも、神学でもそうでした。そういうことを知った上でも、春平太は上記の解読のほうが上質だという確信を捨てることが出来ない状態でいるわけです。
(続きます)