
「これは天使ではないか」と想像させてくれるところは他にもあります。
「出エジプト記」に「雲の柱」「火の柱」というのが出てきます。
エホバに命じられて、モーセはイスラエルの民をエジプトから脱出させ、カナン(今のイスラエル地域、エルサレムのある地域)の地に導いて行きます。彼らを助けるエホバは次のようにした、と旧約聖書には記されています。
「エホバは、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んでいくためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった」(出エジプト記、13章21~22節)
この二つの柱を、物質の柱と考えるのもいいでしょう。エホバが不思議を起こして、そういう柱を作ったとね。

<天使が変容して巨大な火の柱に>
だけど、これは天使が変容したものと推察することも出来ます。3~4百万人ともみられる群衆の前方で、彼らに進路を示すのですから、この柱は長さも太さも巨大だったでしょう。これを物質だとすると一寸イメージは不安定になりませんか。
物質の雲の実体は、水蒸気ですよ。水蒸気がそんな巨大な柱になって民族の前を進むとはね。時とともに蒸発していかないかしら。火もそうですよ。物質の火は何かが燃焼して出来るものでしょう。燃料の何かは燃え尽きていかないのかしら。そもそもそんな巨大な火の柱を作るような燃料は、空中にとどまるだろうか。重くて地上に落っこちないでしょうか。
これが天使だとすると、春平太はすっきりします。天使は無数にいます。数多くの天使が群れをなして、雲のようになったり、火に変容したりして巨大な柱を作っていくという風景です。またこうなるとその光景はとてもロマンチックだと思いませんか。

<前を進んでいた「神の使い」>
この解読を正解だと確信させてくれる聖句があります。
エジプトの労働力となっていたイスラエル人がいなくなってはいけないと、エジプトの王様パロとその全軍勢は、イスラエルの民を追いかけます。ところがつかまえることが出来ない。次の聖句はその理由を記しています~~
「ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らの後を進んだ。それで雲の柱は彼らの前から移って、彼らの後ろに立ち、エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間に入った。それは真っ暗な雲であったので、夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった」(出エジプト記、14章19~20節)
イスラエルの陣営の前を進んでいたのは、雲の柱、火の柱でしたよね。ところがここで聖句はその雲の柱を「神の使い」といっています。神の使いとは天使ですよね。この聖句自体が、雲の柱を天使だと言っているんですね。
また、この雲の柱は、位置を移動するんでしょ。逃げるイスラエルの民と、追いかけるエジプト軍との間に入るため、イスラエル陣営の後ろに移動します。こういうところなど、水蒸気の雲じゃ話の繋がりが悪くありませんか? まあ、エホバ神が水蒸気のかたまりを動かしたと考えることも出来ましょうが。
それに移動した雲は、真っ暗な雲に変わってますよね。こういうところなどは、天使の本領発揮ではないでしょうか。もちろん、これもエホバ神が水蒸気のかたまりを黒くしたとも言えます。そう解釈したい方は、もうご自由にどうぞ。

<再臨のイエス>
雲と言えば、新約聖書でイエスが再臨するときにも登場するね。
「その時、人々は、人の子(イエス)が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを見るのです」(マルコによる福音書、13章26節)
~~この雲も、天使じゃないかなあ。再臨のイエスが水蒸気の雲に乗ってくるなんて変だもんね。いよいよ再臨することになるイエスには、多数の天使が付き従うのでしょう。彼らの軍勢が雲のように見えるか、あるいは、そう見えるように変容しているか、とにかくその方がリアリティが高くありません?
「偉大な力と栄光を帯びて」というのも「力ある天使を付き従えて」という内容だとぴったりするようだし・・・。とにかく光景が壮大でロマンに満ちるよね。
(続きます)
