天使の、人間と違った一つの特性を示唆する聖句があります。
マタイによる福音書では、イエスを捕らえに来たユダヤ教大祭司のしもべの耳を、ペテロが切り落とす場面が記されています。そのときイエスがこう言っています。
「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな、剣で滅びます。
それとも、わたしが父にお願いして、12軍団よりも多くの御使いを、いま私の配下に置いていただくことが出来ないとでも思うのですか。
だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょうか」
(マタイによる福音書、26章52~54節)
この聖句から、少なくとも一部の天使は軍団として組織されているいることが伺われます。
しかし同時に、天使は全て軍団の中にいる可能性もあります。
前者の場合は、軍団に組み込まれていない天使がいることになります。
軍隊というところは、命令→服従、で行動することが厳格に守られている集団です。
そこに組み込まれていない天使がいるとすれば、おそらく自由な立場にいることでしょう。
後者の場合は天使は全員、命令→服従の軍隊組織に組み込まれるていることになります。
春平太は、後者だと考えています。
どうしてか?
一つには、天使には強烈な権能を与えられているからです。
火にも風にも変容することが出来、悪霊を追い出せ、人間の病も癒すことが出来ます。
天使といっても被造物です。前述したように無数の天使が人間と同じように、各々個性的な性格、感情、意志を与えられているようです。
こういう被造物を、自由な環境に置くと、どうしてもわがままで横暴になりやすいものもでるでしょう。
強力な権能を持ったものがそうなると人間がそうなったケースの何千倍も困った存在になるでしょう。
実際、創主の命令に従わないで、自分の王国を造ろうとした天使もいました。
これが変容したのが、サタンでしたよね。
聖書の世界は、この変容天使をどう処理するかの物語という性格を基本的に持っています。
もう一つは、天使が人間のように肉体を持つ存在として創られていないことでしょう。
すると、病で苦しめられ、苦しむことはありまえせん。
強大な権能を持つ上に、弱みがないわけです。
人間にとっては病は忌むべきものです。
だが反面、病というのは、わがままで横暴な人間を、素直で柔和にする力を持っています。
日本の田舎ではいまでも、長男や男の子がいない家庭での長女を特別待遇する習慣が根強く残ってます。
彼らが、スポーツとか、芸事とか、あるいは勉強などで自ら訓練する機会を与えられないと、とてもわがままに育つことがよくあります。
こうして大人まで育ってきますと、非常に困った状態になります。
この傲慢さでは今後の人生を誤るのが目に見えている、と思わざるを得なくなっていても、周囲はどうしてあげることも出来ません。
ところが、こうした長男、長女も、大病をしたりすると変わるのです。
素直で、柔和で、謙虚になったりします。物事に感謝する心が育ったりします。
まだ医学的に対処が出来ていない病に襲われますと、最初は突然の無力感、不安感、恐怖に襲われます。
そしてあがこうとしますがどうにもならないことを徐々に悟ります。
すると、見えないものに頼ったり、感謝したりという心を持たざるを得なくなって、素直になったりするのです。
家族もひたすら助けようとします。
すると従来当たり前だと思っていた家族の助力を意識できるようになります。
そして愛に触れて感謝するようになるのです。
ですからもしその病から結果的に回復できた場合には、病があったことが唯一の救いであったことになるでしょう。
春平太は、自らの親戚関係でそういう例を最近も見ました。
しかし、天使には肉体がなく、したがって病もありません。
傲慢になったら対処してくれる病がありません。
そういう存在が強大な権能を持って自由でいるという状態は、天の創造主王国としてもとてつもなく困ることなのです。
だから、誰も自由に置かないようにしてあると春平太は推察します。
全員が、規律の厳格な、軍隊状の組織の中にいるように造られていると解します。
それが、聖書の筋の通った解読だと考えています。
(続きます)