鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.8 「人間と比較しつつ天使を(2)~~風となり炎となる~~」

2006年10月23日 | “エホバ”の奥義

                                        

 「エホバの奥義」続いています。

 前回、天使の人間と共通したところを見ました。姿形の原型が同じでした。
今回は、違うところの一つを。天使は変容する、と聖書は記しています。

                    
                    

~~ヘブル書の次の聖句を読んでみましょう。

 「また、御使いたちについては『創主は、御使いたちを風とし、ご自分に仕える者たちを炎とされる』と言われれているが・・」(ヘブル人への手紙、1章7節)

~~「御使いたち」、と、「ご自分に仕える者たち」、とは同じ実体です。天使をさしている。別々の存在をさして「ある者は風となり」また「ある者は炎となる」という意味ではないですよね。天使は風にも炎にもなるのです。

                    

 さあ、そうすると、わざわざ天使だと書かれていなくても、「これは天使ではないか」と推察できるところが聖書から浮上してきませんか。

 使徒行伝を開いてみます。2章です。

 「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同が座っていた家いっぱいに響き渡った。また、舌のようなものが、炎のように分かれ、ひとりびとりの上にとどまった」(使徒行伝、2章2~3節)

 この風のようなものは、天使ではないかなあ、と。舌のように分かれた炎のようなものも、天使ではないだろうか、とね。

                    

 続いて聖書を見ますと、

 「すると一同が聖霊に満たされ、御霊(みたま)が語らせるままに、色々な他国の言葉で語り出した」(使徒行伝、2章4節)

~~とあります。有名な初の「聖霊のバプテスマ」の場面で、ここでは聖霊が人々の内に入ったと解します。通説でもそうなっています。だが通説では、その前の風や炎も聖霊だろうと(漠然と)解されているのが通常です。

 けれども、それは天使というものの特性に留意しないでいるからであって、これをきちんと把握したら、風と炎は天使であると解読したほうが、適切そうです。

 天使は、創造霊たる聖霊に仕えるものです。いま、ここにいる人々に聖霊が臨むに当たって、先だってそのルートを掃ききよめるということは、大いにありそうなことではないでしょうか。聖霊は汚れたところには来ない方、というのが聖書の論理です。

 まず、風で世的なチリを吹き飛ばします。次いで、炎で世的な垢を焼き滅ぼします。
そうなったルートを聖なる霊は通るわけですね。

                    

 ありそう、という判断は、人間世界との共通面から推測しています。相撲界で、横綱というのは、しめ縄なんぞ締めておりますところからいたしますと、特別に浄められた存在、ということなのでしょう。神道の論理ですね。しめ縄で区分けされた向こう側は、「浄化されたところ」と言うわけで、そこにいるのは神様だけというわけです。

 で、その横綱が土俵入りする姿を見ましょう。一人で登場しない。前後に「露払い」と「太刀持ち」の力士がいます。この「露払い」が、神性ある存在が通る道を、前もって浄めているんですね。

                    

 福音書にもその種の記述はありますよ。いよいよイエスが働き人として登場するときには、突然一人で登場してませんよね。自分で登場して、「エ~、わたくしはこれから諸君の罪を取り除く子羊で~す」なんて名乗りを上げたりしてませんよね。

 バプテストのヨハネが先に登場します。そして「悔い改めよ、天国が近づいた」と、露払いします。全ての紹介をこのヨハネがします。イエスはただそこに、厳かに登場するだけです。

~~そんなわけで、春平太には上記の解読の方が適切だという確信が、当面強いです。業界の皆の衆はそうでない。それは十分承知ですが、こちらのほうにより強い確信を与えられるんだからしょうがないよね。聖句主義ではこれでいい。みんなそうしたらいいんです。

 (続きます)

                    

コメント
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