「ヨハネ伝解読」はいよいよ佳境に入ります。
が、その前に、ひとつ考えておきましょう。
旧訳聖書に出ている「エホバ」についてです。
日本の信仰者はこれを神、神と呼んで、創造主なる神だと思っています。
イエスのいう、「父」なる神ですね。
でも少し聖書を詳細に見て考えてみると、これにはおかしなところが多々あるのです。
これからそれを見ていこうと思うのですが、その前に、周知の事実を確認しておきましょう。
日本語の口語で訳した聖書には、「エホバ」という訳語は出ておりません。
原語でエホバとなっている単語は「主」となっています。
しかし、文語文の訳書(『旧新約聖書』では、エホバとなっています。
で、これが口語の訳書になると「主」になるのですが、『新改訳聖書』では若干良心的で、「主」という文字が太字になっています。つまり、原語でも「主」(英語のLord)となっているところは、細字で印刷しており、エホバとなっているところは「主」を太字にしているのです。
そうやってかろうじて原語との対応をつけているわけです。
そもそもこんなことをしなければならないところに、なにか不自然さを感じませんか?
エホバはエホバでいいじゃないですか。
どうして「主」に変えなければならないんでしょうね。
そういうところにすでになにやらワケ有りなにおいが漂います。
でも、日本人はこれを「カミ、カミ」と呼んで創造主だとしています。
結論から言うと、まあ、それでも100%間違いではない。
「まあ、それでもいいからやっていてください」というところですが、最近春平太、もう考えを語るべき時だと思わされることがありました。
~~福音関係の他のブログを訪問していたときのことです。
そこによくコメントされる方の文章がありました。
こんな文です。
「ヘブル書は、・・・(中略)・・・、新約を信頼する故に、神様の御性質を見ようとしない私達の過ちを矯正してくれます。・・・(中略)・・・聖書は全巻を通して読まなければいけないのですね。旧約から神様の御性質を学ぶ時、本当に神の前で謙遜になれ、神に自分をささげることができるように思います。・・・・(後略)・・・」
鹿嶋は、この文の中に、「創造主の性質は旧約の中に表れている」という考えを見ます。そしてその背景に「なぜなら創造主は旧訳聖書に登場しているのだから」という考えがあることを察します。この方は、今後も旧訳聖書に創造主の性質をより正確に見ていこうとされるようです。
熱心な方だからどんどん入っていかれれるでしょう。
また、そういう信仰者は他にもおられるでしょう。
熱心な方ほどそうなっていく。これを目の当たりにしたとき、春平太は、もうこの件で沈黙を守るのも限界ではないかと思わざるを得なかったのです。
鹿嶋は、この問題に取り組むのを出来るだけ、最後の最後まで引き延ばそうとしてきました。
このヨハネ伝を解読していけば、いずれ、この問題は避けられなくなるのですが、ぎりぎりまで扱わないようにしようとしてきました。
日本人の信仰者や牧師さんの頭の固さ、慣習による呪縛の強さを繰り返し体験してきましたから。自分と違った解読に遭遇すると強迫観念に駆られるようにして非難する癖にも、いやというほど直面してきましたから・・・。
しかしもう始めましょう。
(続きます)