さて、イエスの言動にはいる。
それが人々に永続確信を与える過程を探求する。
<複雑な視野を>
この状況は、若干複雑だ。
① まず、語る筆者の手元には「イエスの伝記」(福音書)が四本ある。
筆者はそれを手がかりにして、活動したイエスと弟子たちのイメージを抱いて語る。
② 他方、イエスに語られる弟子たちの手元には、福音書はない。
代わりに彼らの眼前には「生身のイエス」がいる。
③ そうした福音書など何もい弟子たちと、それに対応して語り行動していくイエス・・・
この両者の間の時々刻々とした動きを、追体験する鹿島春平太がいる。
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~この構図はややこしいが、弟子たちの心に形成される「確信」をみるのが
目的だから仕方ない。
筆者はイエスの同時代人でないから、生身のイエスの語り口を直接聞くことはできない。
追体験は「福音書」という文字で記された文書を元に行われれる。
その際、弟子たち~「たち」とは「他の人々」も含めて言っている~の心理と
その反応も考慮に入れて、イエスの具体的な言葉を解読するのだ。
<前例なき試み>
こういう読み方は、従来されてこなかった。
これまでは「イエス様の言葉は神の言葉です! 」と牧師さんは教えるし、彼自身も、その姿勢で読んできた。
信徒はどんなみ言葉も「アーメンで受けなさい!」と言われて読んできた。
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だがイエスは実際には、その時々の人々の姿勢と反応を見た上で、メッセージを発信した(語った)はずだ。
だから概して、後の教えになるほど、深く、高度になる傾向を持つと推測される。
そういう特徴を見ながら、イエスの教えを見ていこうと思う。
どうでもいいことだが、この読み方は、本邦初であるとともに、おそらく世界初だと思われる。
用いる福音書は、その内容が最も正確と思われる「ヨハネ伝」を主とし、必要に応じて他の福音書の聖句も用いよう。
(続きます)