聖霊降臨・バプテスマの予告に続いて、イエスはさらに重要な予告をする。
自らの死と「よみがえり」(復活)、さらに弟子たちの復活と永続の予告だ。
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「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。
だが、諸君は私を見ます。
私が生きるので、諸君も生きるからです」
(ヨハネの福音書、14章19節)
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~「いましばらくで世はもう私を見なくなる」は、
「死んで葬られていなくなる」ということだ。
「だが、諸君は私を見る」は、
「私はよみがえって諸君の前に現れる」であり、
すなわち、復活の予告だ。
<諸君も私と共に永続する>
そして、その次の
「私が生きるので諸君も生きるから」は、
人間への予告だ。
これはイエス独特の表現(言い方)だが、要するに~
「私が復活して生き続けるように、諸君も、死んで、復活して天国に受け入れられて永続する」
~という。
ここで「諸君も生きる」は、諸君も私(イエス)と同じように永続する、という意味なのだ。
<死後まずパラダイスで安息する>
前記したドラマの全体像~
(十字架死 ⇒ 復活 ⇒ 追加の教え ⇒ 昇天 ⇒ 空中再臨 ⇒ 天国への受容)
~のプロセスでの位置を言うと、
まず、イエスが復活して⇒ 追加の教えをして ⇒ 弟子たちはその昇天を見送る。
~という事件の後のことだ。
上記ドラマのプロセスには記入しなかったが、
イエスの昇天を見送った後、弟子たちはイエスの教えを伝導して生涯を終える。
すると、その霊を天使がパラダイスに導いて、そこで安息を続ける。
そして、あるときイエスが天国から宇宙に下って空中に現れる。
すると、弟子たちの霊は新しい身体に復活する。
そして、天国に迎え入れられて永続する。
~そういう人間向けの予告(約束)までもが、ここで一気になされている。
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もちろん、弟子たちはこの時も、言われてることの具体的中身は、ほとんどイメージできない。
当然だがイエスはかまわず語る、という場面である。
(続きます)