ここで富豪たちのイエス支援の動機を考えておこう。
利己心もあったことは否定できないだろう。
人間誰しも自分と家族の健康は主要関心事である。
だが、経済的に豊かなものは、特にその意識が強い。
日々食べることに関心を多く注がなくてすむからだ。
彼らには、愛する家族が重病になったとき、癒やしてくれる人の価値はとりわけ大きい。
癒やし人には、いざというとき頼めるように支援しておこうとなるのは、自然なことでもある。
大阪のオバハンなら「お友達になっておきたいわ・・・」とつぶやく場面だ。
<「お人好し」の愛>
だが、富豪の支援者の動機はそれだけではなかっただろう。
イエスには、「教祖になって楽な暮らしをしよう」とかいった「世的な」動機はまったくみられなかった。
ただ、愛と哀れみでもって病人を癒やすという、「お人好し」気質に満ちていた。
支援者たちはそれをみて、心洗われる心情になっただろう。
<「自分が何をしてるかわからないのです」>
この愛を言葉で定義するのはむずかしい。
シャンソン歌手の美輪明宏が絶叫する「無償の愛!」が言葉の上では比較的近いかもしれないが、具体的中身となると大違いだ。
実際にシャンソンで歌われるのは、愛する男性の幸せを願って身を引く女性の心情程度のものであって、イエスが癒やしで見せた愛とはほど遠い。
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これはやはり、イエスが十字架上で死ぬ直前にみせた言動をみるのがいいだろう。
彼は自分を十字架に釘で打ち付けて罵倒するローマ兵士たちのために、祈り始めた。
「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分が何をしているのかわからないのです・・・」
このくだりを福音書で読んで、あるいは牧師の説教で聞いて、クリスチャンになった人を、筆者は一人ならず知っている。
彼らはこの場面で「ああ、これは人の愛を超えている」と感動した。
「この人は人間ではない、神の子だ」と確信したのだ。
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この愛に折々に触れた富豪たちは、青年イエスをまるで自分の息子のように愛したのではなかろうか。
そしてイエスを「自分のことのように」援助したと思われる。
(続きます)