前回の続きである。
イエスは扉が閉じられら部屋の中に入ってきて「平安あれ・・・」といった。
通常の常識では理解が難しい事態だ。
+++
話は、認識論的になる。
そういう事態を認識する方法は、基本的に二つある。
一つは「イエスは神の子だからそういう不思議な出来事として受け取っておきましょう」とする方法だ。
<神秘は宗教の必須要素だが>
それもいい。
不思議すなわち「神秘」である。
宗教においては神秘要素はあっていいし、必要でもある。
もし、神秘を全て否定してしまったら、そのイメージ世界は科学のそれになってしまう。
<神秘主義では「知」が欠ける>
だが、かといって、闇雲に神秘にしてしまえばいいというものではない。
そうすると、認識は凡庸な「神秘主義」というか、単なる「神秘好き」に流れてしまう。
宗教は結局みな「鰯の頭も信心」の精神世界の活動で、「知的に劣った人のすること」となってしまう。
日本の神(在物神)概念は概してそうなのだが、それでは認識に「知」の要素が欠けていく。
<物理事象に投影する>
もう一つ方法がある。
神秘要素を、できる限り五感認識可能な物理的事象に投影(たとえること、比喩)することだ。
それによって、イメージ理解を試みるのだ。
いけるところまでやってみる。
どうにもならないところは、やむなく神秘とするのだ。
+++
イエスも自分の教えを伝えるときに「たとえ」を多用している。
自分の死を前にした「最後の晩餐」においてさえ、弟子にこんな比喩表現をしている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・
「わたしはぶどうの木で、諸君は枝です 。
人がわたしにとどまり、わたしもその人の中に留まっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」
(ヨハネの福音書、15章5節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・
~「弟子たちがイエスに留まり、イエスもまた弟子たちに留まる」という言葉は、そのままでは何を言ってるかわからない。
見えない世界の事柄をそのままいわれても、弟子たちでもよくわからないのだ。
それを「ぶどうの木と枝」に投影すると、とにかく、そのイメージは弟子の心に浮上する。
イエスが壁を抜けて部屋に入ってきたことに対しても、それを投影・比喩する物理的事象はないか。
そう考えるのがオーソドックスな思考と思われる。
(続きます)