イエスはエルサレム神殿だけに居続けたわけではない。
故郷のガリラヤ地方(地図で言うと上の方にある)にも帰って教えるし、途中のサマリアという村にも立ち寄って宣教をした。
また、エルサレムでヤバくなると、ヨルダン川の東側ギレアデ地方にも逃れて時を稼いだ。
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そうした状況でのエルサレム滞在だったが、神殿広場でのイエスの教えは、他の地域での説教よりも根源的なところをついていた。
脚なえを歩かせた時には、こんなことを言っている。
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「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事もおこなうことができません。」
「父がなさることは何でも、子も同様におこなうのです」
(ヨハネの福音書、5章19節)
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~イエスの教えが普及した時代の我々にとっては、この発言は珍しいことではない。
父、子、聖霊を神とする三位一体論だ。
だが、当時の状況はそんな甘いものではなかった。
<文句なしの「石打ち」刑>
ユダヤ教は、創造神の完全一神教だ。
イエスはその本山で、神を「父」と呼び、自分を「子」といった。
もうこれはとんでもない律法違反で、石打ちでの処刑に値する。
「石打ち」とは、こぶし大の石をみんなで投げつけて骨を砕いて殺す集団処刑だ。
<奇跡には創造主が共に>
だが、イエス逮捕は先送りされていた。
ユダヤ教には同時に「奇跡をおこなう人には創造主が共に働いておられる」という思想があった。
これもまた大鉄則だったのだ。
旧約聖書でのモーセの奇跡もエリアの奇跡も「神が共にいたからできた」という理論だ。
その奇跡を、イエスはもっと大がかりに、高頻度で行っていた。
この面では、会議でも高僧たちはイエスに一目置かざるを得なかった。
二つの思想が彼らの中でせめぎあっていた。
イエスの逮捕が先送りになっていたのは、
単に、神殿でのイエス人気によるという、
そんな浅薄な理由だけではなかったのだ。
(続きます)