イエスが「最後の晩餐」で予告したことは、まだまだある。
だが、弟子たちはその予告に「そうかもしれないな」「そうなるといいな」と思うのがせいぜいで、確信は持てなかった。
予告したことを五感で認識できなかったからだ。
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公衆に宣教する際、イエスはまず奇跡を見せた。
教えに耳を傾けさせるためだ。
その奇跡は、五感が認識する現象である。だから人々は驚愕した。驚いて教えに耳を傾けた。
だが、続いて語る教えを五感認識させることはなかった。
「天国は近づいた」といっても、その天国を映像で目に見せつけることはなかった。
「私の教えていることは父から与えられたもの」
といっても、その状況を目に見せることもなかった。
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「最後の晩餐」での弟子への予告も同じであった。
「聖霊を送る」といっても、そう言っている時点では、聖霊を五感認知させることもしなかった。
だから、弟子たちも、イエスの予告に「そうなるかもしれないなぁ」という気持ち以上の、思いを抱くことなかった。
<復活は五感認知させた>
だがそうしたなかで、イエスは一つだけ、例外を見せた。
「わたしは(死んでも)また諸君の眼前に現れる」という予告(教え)についてである。
イエスは十字架刑死して墓に葬られた後、実際によみがえって弟子たちの前に。目に見える状態で現れたのだ。
いわゆる「復活」の予告については現実に見える状態で五感認識させたのである。
これがいかに画期的ですごいことであるか、現在クリスチャンと称される人々にも、ほとんど認識されていない。
この事件を次回からしばらく、吟味しよう。
(続きます)