ここで、イエスの「よみがえり」に対する弟子たちの心情を想像してみよう。
現在の我々には福音書という書物がある。
多くの者は、それを読んだり、あるいは、読んだ者の要約話を聞いたりして、イエスの復活話を、知っている。
日本人ではそういう人も少ないかもしれないが、復活祭という言葉くらいは知らず知らずに耳にしているだろう。
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だが当たり前のことだがイエスと同時代の弟子たちには、福音書はなかった。
代わりに、生身のイエスが共にいた。
その状態で「あの死んだ師匠(イエス)が再び現れたらしい」という情報を得たのである。
さすがの弟子も最初は「まさか!」だった。
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たしかに、「最後の晩餐」でイエスは「自分は殺されて、復活して現れる」と明言している。
だがそれでも最初は「まさか!」であった。
福音書によれば、彼らはよみがえったイエスを見て、だんだんと「事実かも知れない」と思いはじめていっている。
目で見てもそれを現実のことと受け入れるのに、結構な時間を要している。
<「新しさ」のランクが違う>
理由は一つには、この奇跡は従来イエスが見せた奇跡を、ワンランク超えたものを持っていたからだと思われる。
前の回で筆者は「奇跡とは既知の自然法則を超越した新現象を五感に認識させるもの」と定義した。
その新現象の「新しさ」のレベルが、従来の奇跡をワンランク超えていたのだ。
<他者を生き返らせる奇跡なら>
人を生き返らす奇跡なら、旧約時代の預言者エリヤもやっている。
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彼は、一人息子が死んで悲嘆に暮れていたやもめの、その息子を生き返らせている。
(第一列王記、17章17-24節)
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イエスはそんなことは繰り返しやっている。
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死んだ少女に「起きなさい」という言葉を発して生き返らせている。
(マルコの福音書、5章40節)
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死んで棺で運ばれるやもめの息子の青年を、「起きなさい」という言葉を発してよみがえらせている。
(ルカの福音書、7章12-15節)
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イエスを慕ったマリア、とマルタ姉妹の弟、ラザロは、墓に葬られて、死後四日たっていた。
その墓にきてイエスは「ラザロよ、出てきなさい!」と声を発して生き返らせている。
(ヨハネの福音書、11章43節)
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これらの奇跡には共通した特徴がある。
生き返らせた当人であるエリヤもイエスも、自らの身体は変化していない。
<復活では自ら変身している>
ところが、今回の「よみがえり」では、イエスの身体状態が変化している。
死んで息をしなくなって、動かなくなって墓に葬られた。
それが生き返って動き出し語り出すという、大きな変化を見せているのだ。
これは過去の預言者も、イエス自身もしたことのない、ワンランク上の奇跡であった。
この大変化に、弟子たちの常識感覚がついて行けなかった。
だから、この「よみがえり」は五感認知できても(目でその姿を見ることができても)、
事実と受け入れるには時間がかかったのだ。
(続きます)