本筋に戻ろう。
弟子たちは、復活のイエスを「目で見ても」、それがイエスだと受け入れられなかった。
理由の一つは、生前と身体が変わっていたことにあるだろう。
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イエスの復活の身体が異なっていただろうことは、次のことからも推定できる。
イエスの処刑後、弟子たちは、ユダヤ人たちが自分らを襲うことを心配して、一つの部屋の入り口に鍵をかけて潜んでいた。
そこにイエスが、扉も開けないで入ってきている。
その状況を、ヨハネは次のように記している~。
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「その日、すなわち週の初めの日(日曜日)の夕方のことであった。
弟子たちがいた所では、ユダヤ人(の襲撃)を恐れて戸が閉めてあった。
イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。
『平安があなたがたにあるように』
(ヨハネの福音書、20章19節)
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~この「扉をすり抜けて入ってきた」ことも、大きな意味を秘めているが、そのことは次回に吟味する。
とにかく、目の前に現れたイエスを、弟子たちは、霊を見ていると思った。
様態が異なっていたからだろう。
<霊だと恐れた>
ルカはつぎのように記している~。
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「これらのことを話している間に、イエスご自身が彼ら(使徒たち)の真ん中にたたれた。
彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。
するとイエスは言われた。
『なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手や足を見なさい。
・・・・(中略)・・・・・
霊ならこんな肉や骨はありません。』
(ルカの福音書、24章36-40節)
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~聖書には明言されていないのだが、このイエスは、生前の肉体を持っていたときのイエスの、そっくりそのままの再現ではないはずだ。
その姿形(スガタカタチ)は生前のイエスのままであったかもしれないが、身体の素材は異なっていたはずだ。
生前の肉体のように、肌も見た目ではすべすべしてはいなかったかもしれない。
目尻にもしわはなかったかもしれない。
とにかく、生前とは異なっていた。
だから、弟子たちは「霊を見ている」と思ったのだ。
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扉を閉めていたのに、入ってきた。
この事件にも深い意味が含まれているが、次回に吟味しよう。
(続きます)