まだ前回の続きである。
復活のイエスは、閉じられた扉か、あるいは壁を通り抜けて部屋に入ってきた。
これを物理(学)的事象に投影させて、比喩理解したい。
だが、その前に、比喩理解というものの事例をみておこう。
筆者自身がやってみた体験事例である。
<「いのち」というキーワード>
聖書には「いのち」という語が頻繁に登場する。これは聖書論理の中心概念だ。
にもかかわらず、この語は明確に定義(別の言葉で言い換えること)されることはなく、今日まで来ている。
霊感の卓越した人はそのままでわかるかもしれない。
だが、われわれ一般の人間にはその意味はわからない。
それ故に、その語を用いた聖書の論理も、漠然としてわからない。
筆者もそれに悩まされ続けてきた。
<エネルギーのような概念だなぁ>
長年悩まされてきたなかで、あるとき一つの雰囲気が浮かんだ。
「いのちって、エネルギーのような感じの概念だなぁ」というオーラだ。
そこで、思い切って、「いのち」を「いのちエネルギー」と言い換えてみた。
<霊は充電式乾電池>
それは、電気エネルギーをイメージすると、特にわかりやすくなるのだが、「いのちエネルギー」の名のままで思考を進めた。
まず「いのちエネルギー」は創造主より被造界にあまねく放射されている、とする。
そして、人の霊を充電式乾電池のようにイメージしたら、次のような理屈が浮上した。
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人の霊は意識体でもある。
そこで、その意識の波動が創造主の言葉のそれと共振・共鳴するほどに、充電は効率よくなされる、と考えた。
共鳴しなければ、「いのちエネルギー」は、その人の霊を素通りしてしまって、その霊は充電不全になる、とイメージした。
<言葉を受け入れれば意識波動は共和的に>
そのように考えると、「イエスの言葉を心に受容すると、霊がいのちを得る(得て活性化する)」という聖書の論理が、わかりやすくなった。
イエスは「自分の言葉は父なる創造主の言葉でもある」という。
言葉は意識波動をもっている。創造主の言葉は、創造主の意識波動を持っている。
それを心に受け入れれば、その人の意識波動と創造主の意識波動との共鳴度は上昇する。
そうなれば充電式乾電池(霊)はよりよく充電され、活性化するだろう。
こう理解できたのだった。
<著書で使ってみたら>
筆者はその解読を用いて、『聖書の論理が世界を動かす』(新潮選書、鹿島春平太)を作成した。
この本は、聖書本としては異例によく売れた。
そして発売後二年ほどたった頃から「この本の比喩説明を用いたら説教が楽になった」との牧師さんの声を一人ならず、間接的に聞くようになった。
比喩的理解の効力を体験した事件であった。
(続きます)