第35,36回に提示した解読問題に面食らった読者も多いと思う。
日本の教会に通っている人でも、歯が立たないのではないかな。
クリスチャンはイエスの生涯を知っているので、例題1はとけるかもしれない。
(イエスの生涯は、31~新約聖書の大枠~の中でも述べている)
けれども、一般人は、こんな複雑そうな問題など、解くヤツがいるのか、と思うだろう。
<常時、神学をする人々>
実際、これらの問題を解くには、新約聖書に収録された書物の聖句にも通じていなければならない。
一見繋がりそうにないそれらの聖句をつなぎ合わせて、妥当な解読を探っていくのだ。
この聖句をつなぎ合わせて論理体系を見出していく作業が、いわゆる「神学」である。
それを職業神学者だけでなく、一般信徒も毎週行っているのが米国でバプテスト教会と呼ばれる教会の人々である。
南部のバプテストをサザンバプテストという。
この数が、推定4000万人いる。
北部のバプテストは、アメリカンバプテストという。
この数が推定、1000万人。
両者をあわせると、韓国の全人口を超えることになる。
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これだけの数の大人が、毎週スモールグループに集まって、聖句自由解読を続けている。
それを通じて、強靱な知力を養っている。
これが米国なのだ。
米国では一定の知力を要する本、簡単に言えば「知的な本」は日本の10倍売れるという。
人口は日本の2倍だ。
なのに、倍ではなく、十倍売れる。
これは、それだけ「知力の強い人」の比率が多いことを意味している。
その知力が、聖句自由吟味活動によって、育成されているのである。
<人生観は人生の価値理念>
さて今回は、この自由吟味者たちの人生哲学を見ておこう。
人生哲学とは人生観ともいう。
人生観は広く価値観ともいわれる。
つまり、「人生において、何にどの程度の価値を認めるか、という価値の序列」・・・これが人生観の中身だからだ。
「観」というのは、感慨ではない。
理念である。
感慨は漠然としている。
理念は明確な筋道を持っている。
人生観は、人生における価値の序列の「理念」である。
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米国のバプテスト自由吟味者たちは、万物の創造神からのメッセージ受信記録が聖書にあるかどうかについて、客観的な姿勢を持っている。
つまり、見えない世界のことは基本的に、否定、肯定両面の認識が成り立つことを承知している。
その自覚の上で、肯定の立場からメッセージ吟味を進める。
そして「これぞ全知の創造神からのメッセージ受信記録!」と確信させられる奥義に遭遇する。
(実際の話、これは深い精神的喜びが感じられる体験である)
奥義を悟った聖句には、癒しなどの「しるし」が伴うこともある。
それによって人は、「創造神は、いまも、生きて働いている!」と確信する。
(この体験はさらに強い喜びを与える)
<念ずるだけの神>
ちなみに、創造神の存在を肯定する立場に立っても、聖句がそこからのメッセージ受信記録である可能性を否定する人は、聖句吟味などしない。
せいぜい神一般に、何かを念ずる程度だ。
思い出した折りに、祈念を繰り返すのみである。
そこには理念がないから思考がない。
<言葉で探っていく神>
聖句が創造神からのメッセージである可能性を肯定する側から進んでみている人は、違う。
その言葉を手がかりにして創造神がいかなる方かを知ろうとする。
彼等は、言葉の吟味は自由な精神で行う方が、効率的であることを体験で知る。
その体験から彼等は聖句自由吟味に大きな価値を感じる。
彼等はまた、スモールグループで交信しながら行う方と効率が飛躍することを知る。
そこで、自由なスモールグループにも、高い価値を与える。
彼等は、自己の小グループをとても大切にし、その仲間と家族のように暖かく交わる。
<自由吟味活動者の人生観>
そうしたなかで彼等は、親しい小グループのメンバーと、日々聖句を自由に吟味することを、人生で最高に価値あるものと考えるようになる。
この価値観は深く、固く、それが彼等の人生理念、すなわち人生観となる。
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幸か不幸か、欧州中世史は、そうした彼等が襲撃、逮捕、処刑されるという方向に展開する。
だが、生き残った人々は、聖句自由吟味活動を続行した。
また迫害にもかかわらず、この活動に加わる人も後を絶たなかった。
彼等の多くは、欧州中央部の山脈地域に隠れ住んだ。
〔北欧地域に逃れた人も多かったと推定される)
そして小グループでの自由吟味活動に人生の最高価値を置くという人生哲学を持ち続けていった。
<英国近代バプテスト>
蛇足ながら、英国に生まれた近代聖句吟味者〔近代バプテスト)についても述べておこう。
彼等は、欧州大陸の自由吟味者が抱く最高価値に、もうひとつの価値を加えた人生観を持っていた。
自らが自由吟味を続けるだけでなく、聖句自由吟味が攻撃されずに自由に行える国家社会の建設をも本気で夢見た。
その建設にも、最高価値を与えたいたのである。
他人の精神活動に干渉しない国家、その国家社会を、彼等は驚異的な忍耐力と、鋼の知力でもって、北アメリカ大陸の地に実現した。
これがアメリカ国家であった。
<米国人の人生哲学>
自由国家の建設がなると、その建設に邁進するという最高価値のビジョンはもういらなくなる。
すると、小グループでの聖句自由吟味の生活が最高価値として残る。
これが米国バプテストの人生観となった。
そしてこの人生姿勢が、米国の他の人々にも模倣されていった。
自由吟味者たちが言うところの、いわゆるバプテスト化(Baptistization) が広範に起きた。
それが結果的に、アメリカ人一般に
「自由の中で創造神との交流に最高の価値をおく」人生哲学を抱かせるに至っている。
<天賦人権思想>
しばらくして彼等は、こういう人生を送ることを「人間が天から与えられた、天与の権利」と考ていった。
かくして人権(human right)思想が誕生した。
<英国知識人の人権思想>
ちなみに、天賦人権思想は、英国の「知識人たちには」先駆的に形成されていた。
従来、欧州では王権神授説が普及していた。
「王の持つ統治権は、創造神によって与えられているもの」とする思想である。
人民はこの思考に慣れていた。
この土壌の中で、知識人たちは自由吟味者の生き方に強く影響されていった。
その結果、人生最高の価値は、国王に献身することから、「個人が自由に聖句を吟味する生活を生きること」へと移動していった。
トーマス・モアを端緒として、ジョン・ロック、デビッド・ヒュームは人権神授説的な思考を展開した。
彼等は、「人間には、個々人が創造神と交流する権利が天から与えられている」、という感覚をベースに論理を展開した。
<アダムスミス「諸国民の富」も人権思想ベース>
ちなみに、アダム・スミスの『諸国民の富(Wealth of Nations)』もこの延長線上にある。
彼はヒュームに可愛がられて自らの学識を形成してきていた。
この本で彼が論じたのは、国民一人一人の経済的豊かさを実現する方法であった。
彼が焦点を当てたのは、国王や国家の富ではなく、個々人の豊かさであった。
だから、この本の題名を「国富論」と訳すのは、実は、誤りなのだ。
スミスが主眼を置いたのは、国家の富ではなく、「諸国家の中の個々の国民の富」だったからである。
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だが天賦人権思想は、人民の国王への献身姿勢を希薄化するものだ。
王は激怒する。
モアは、別の件でもって処刑となり、ロックは国外追放となった。
<人権がフルに満たされる社会のビジョン>
だが天賦人権思想は、人権をフルに満たす社会を理想とする社会ビジョンをも自然に生んでいく。
特に、社会的な有力者にはそれが強くなる。
これが英国近代バプテストの発生の土壌となったのだ。
<肉体の生命より上位に置いたもの>
蛇足が長くなった。
最後に、聖句吟味者たちの人生観を包括的にまとめておこう。
彼等は、自らの肉体の生命よりも、上位に置くモノを持っていた。
その第一は、「霊魂のいのち」である。
彼等は、聖句吟味を通して、「肉体は100年もすれば消滅するが、霊魂は永続する」というイエスの教えを肯定的に受け入れていた。
その事実認識から、霊魂が創造神との交わりを回復して「いのち」をえて永続することを、肉体の生命以上に価値あるモノとしたのである。
これは、この回には述べなかったが、暗黙の前提として認識しておくべきことである。
第二は、ここで述べたことだ。
それは、聖句自由吟味を通して創造神との交わりを実感することである。
彼等はそれを肉体の生命以上に価値あるものとしたので、カトリック国家権力に処刑される危険のなかで、聖句自由吟味の日々を守ったのだ。
第三として、その自由吟味を、お互いを完全に自由な立場に置いて行う小グループをも加えておこう。
自らの属する聖句吟味小グループも、実際上、彼等にとって、肉体の生命以上に価値あるものであった。
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そして、聖句自由吟味者がもっているこの価値観を、米国民一般も、漠然ながら共有している。
これが米国人人生観の風景なのである。
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