「聖書の絶対正統な解釈を知る人間はいるのではないか・・・」という漠然とした意識~
これがものを学ぶ際に、「おびえ」の心理を作り出している。
だがこれから脱却するのは、日本人にとっては難しい。
~前回、そんなことを述べた。
今回は、それを示している事例を述べよう。
<自由吟味を貫徹してきた牧師>
海外に、自由吟味を徹底的に行い、とても深い解読にたどり着いた神学者兼牧師がいる。
彼は若い頃から、教団に呼び出されて再三尋問を受けた。
様々な迫害を被りながらも、自らの解読吟味を続け、ついに独自の解読(神学)を確立しはじめた。
教会メッセージもそれを元に行い、教会も成長を続けてきた。
<聖書解読を聞く会>
最近、この人の聖句解読を聞く会があって、わたし・鹿嶋も参加した。
十数人の小さな会で、参加者には同志的な親しい関係があった。
そのなかに一人の女性牧師がいた。
彼女は従来より、その解読を取り入れて自らの教会を運営していた。
牧会には癒しなどのしるしも現れていた。
<女性牧師の教会に問題発生>
二日目のセミナーが終わって、私は数人の牧師さんと雑談をしていた。
そのそき、その女性牧師さんが、一つの悩みを述べた~。
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~自分の教会に、あるとき3人程の信徒が他教会からグループで参加してきた。
彼らは説教をよく吸収し、感動し、喜びをもって教会活動をしていた。
ところがあるとき、グループみんなが退会し、他の教会に移っていった。
そして自分について「あの牧師は異端だ」と言いふらし始めた。
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しばらくして、その動きはおさまった。
ところがまた同じことが起きた。
一団のグループが参加して、活動して、脱会して「あの教会は異端だ」と公言する・・・という動きだ。
二度も同じことが続いて、どうしたらいいものか、悩んでいる~と。
<そもそも異端とは・・>
わたしは次のようなアドバイスをしてみた~。
「そもそも、異端という言葉は絶対正統な解釈を持っていて、それと違うことを根拠にして初めて言えるもの」
「そこで、絶対正統な解釈には、人間には到達できない・・・との前提を教会員に明示して牧会したらどうか」
「そして各々が助け合って、日々聖句解読を深めていくようにする」
「さすれば、もう“異端”という非難はしなくなるだろう」~と。
<米国南部の自由吟味教会を説明>
彼女は~「そんな牧会など出来るのだろうか」~と言った。
わたしは応えた~
「米国南部のサザンバプテスト教会は、みなこの方式で教会運営をしている」
「全員集まっての礼拝の前に、教会員はスモールグループ用の小部屋に分かれて、礼拝と同じ程の時間を使って聖句自由吟味会をしている」
「時には牧師も自由参加して、一般会員と対等に議論したりすることもある」
「彼は“これが正しい解釈”と主張したりは絶対にしない」
「それでいて、全員礼拝になると、講壇からメッセージを”自分の見解として”力強く語っている」
<牧師の権威はどうなる?>
すると女性牧師はこういった~
「それでは牧師は何も教えられないのでは?」
「牧師は聖霊によって指導者としてたてられている」
「聖霊によって正しい解釈を啓示され、毎週メッセージをする」
「牧師はそういう権威を聖霊によって与えられている」~と。
そこで鹿嶋は~よせばいいのに~こう語ってしまった。
「それではまた同じことが繰り返されるのでは?」
「聖霊によって啓示を受けるにも、その方法は聖句で探究すべきではないか」
「探究を始めるまでは、聖霊によって、という語は、あまり頻繁に使わない方がいいのでは?」
すると、女性牧師は怒り、席を蹴って出ていってしまった。
「あなた、もう一度現地に行って、よく勉強して来たら?!」と捨て台詞して・・・。
<脱却の難しさ>
このケースも、日本人の心の底には「正統な解釈は人間に出来る」という“漠然とした”思いが根深くあることを示している。
(このケースではそこに聖霊が持ち出され、この啓示で可能、という論法になっている)
これから脱却するには、その思いのさらに底に「人間は絶対正統な聖書解読には至れない」~という確信を明確に挿入しなければならない。
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私の見るところ、彼女は日本ではかなりいい牧師さんの部類に入る人だ。
その彼女においても、こういう事態が起きるんだ。
この脱却は日本人には、とても難しい、と覚悟せねばならないよ。
今回はここまでにしよう。
⇦ 聖書の否定でしょうよね
(<祈ってるのか?逃げているのか?損得計算のごりやく?)、
聖書を前にしても、読んでも、解釈だとこじつけしても、近づくどころか、ふれることもできない。
やはりね、虐待を快楽だと信じてる、人の、人でありたい理性を否定する、
自殺や集団自決の国民性なんでしょ。
真理の探究とは程遠い危機種なんでしょうね。
でも、鹿嶋にはわかります。
>人でありたい理性を否定する、
>自殺や集団自決の国民性
>真理の探究とは程遠い危機種
・・・ホント、凄いよね。
主と呼びながら「正統な解釈は人間に出来る」って。
個々が異なる、その感覚が持てないというのは個を認めない、他人を否定する、人や現実を否定する、自己存在を認知してないということです。
神とは、口だけで、人の異なりさえ、自分さえ、見分けられていない(客観視できていない)。
盲目の中にあって人の道どこの話じゃりません。
自己確立ができていないということです。
嘘や誤魔化しがまかり通る、まかり通してるという感覚です。
(誤魔化しを信じているふりをしたい弱い自分がいるということです。現実や自己を隠蔽する行為です。背信行為。
聖書はそれらから解放されるためにもたらされてるものです。
人権とは、人が作ってきた守ってきた、与えられるに値する人(違わない)としての感覚から生まれた、独立性、概念なのに。