三章に入ります。
ここからは、神学的な意味を深く持ったイエスの言葉が多くなってきます。
まず、ニコデモというユダヤ教の指導者が登場します。彼はユダヤ教の中でもパリサイ派に属しています。
このグループは、「(旧約)聖書に記されているすべての律法に、厳しく従う」というのを主旨とする一派でした。そうすることによって創主を喜ばせようとしたわけです。
聖書には、サドカイ派という、もう一つ代表的なグループが登場します。こちらは、旧約聖書の全てではなく、はじめの五つの書物(モーセ五書と呼ばれるもの)に記されている律法にのみ従うべきだと考えたグループです。
サドカイ派の人々は、霊的なものが存在するとは信じませんでした。人間の復活などありえないし、天使も存在しないと考えていました。
そしてイエスの時代、祭司長の職務は、彼らによって占められていました。実質上、世襲されていた。国家宗教が形式化・固定化していたのですね。
なお、サドカイ派の人々は最高富裕層で構成されていました。パリサイ派は、言うなれば中間層です。
中間層といっても、今日の日本のように国民の多数を占める存在ではありません。最高富裕層も、中間層も、数としては一部の少数者で、大多数はそれ以外の低所得層や貧困層でした。産業革命前の人類社会はそんなものです。
また、現世的に最も経済的に豊かな人々が、霊的でなくなるのは、現代にも共通する傾向ですね。富裕層は、現世の生活を比較的よく楽しめます。そして、自分たちの富を守ろうと強く志向しますので、どうしても物的な側面への意識が大きくなるのでしょうか。
そもあれ、そういう舞台の中に、イエスは、自らの教えを広めていきます。彼の教えは本質的に霊界理論です。それをしるしと不思議(奇跡)でもって裏付けていく。上記のような環境の中で、彼の働きがいかに画期的・衝撃的であったか、想像してみて下さい。
@ @ @
さて、このニコデモさんは、パリサイ派です。そういう旧体制に属していながらも、彼はイエスに深い関心と好感を持っていました。
ある夜、イエスの所へこっそりとやってきます。そして、「あなたのなされる奇跡は、創主が共に有られないと、とても出来ないものだと思います。だから、わたしはあなたが創主のもとから来られた先生であると思うのです」と語りかけます。
これに対してイエスは、またまた相手が理解できないことを平気で言ってのけます。「人は新しく生まれなければ、創主の国を見ることは出来ないよ」と、イエスが応えたとヨハネは記しています。
ニコデモさん、何を言われたのかさっぱりわからない。それで「いまさら母の母胎に入って生まれなおすことなんて、人間にできませんよ」といいます。そりゃそうですよね。常識だ。
@ @ @
けれどもイエスはかまわず言っています「水と霊から生まれなければ、創主の国にはいることは出来ないよ。肉から生まれるものは肉であり、霊から生まれるものは霊である」と。
これは一体なんだ?
何を言っているんだ?
結論から言いますと、ここで「水」は「水によるバプテスマ」を「霊」はその時に臨む聖霊を意味しています。ここは「バプテスマの神秘」とでもいうべきところで、多くの説明が必要です。
しかし、それはカテゴリー「春平太チャペル」のなかの『洗礼は不完全信仰での決断による』の回をご覧下さい。結論的なところだけを言いますと、洗礼を受けるに際しては、当人の心の内に、「この世の論理」と「天の論理」とが併存する状態になっています。
「世の論理」とは、この世で暮らして身に付いてきているところの考え方です。「天の論理」とは、イエスの言葉によって心の内に形成される思想です。
そして、バプテスマを受ける前には、「世の論理」が前面に出ています。「天の論理」は、後方に控えているわけです。これがバプテスマを契機に逆になります。「天の論理」が前面に発つようになります。「世の論理」は、なくなりはしませんが後方に退きます。
これを実現するのが、聖霊の働きです。バプテスマには、聖霊のそういう働きが伴うようなのです。これを春平太は「バプテスマの神秘」と捉えています。
そして、こうなると、当人には、天国行きの資格が与えられるよ、というのがイエスの教えです。いわゆる「救い」というのは、このことです。が、ともあれ、イエスはこういう事態が生ずることを、「水と霊から生まれる」とニコデモにさんにいっているわけです。
新しい自分になって水から上がるのですから、まあ「新しく生まれる」というふうに言うことも出来るのでしょうね。
@ @ @
この「霊から生まれる」という部分を、「聖霊によるバプテスマ」と解す道もあります。
後にイエスは、「聖霊を受けなさい。それまでエルサレムにとどまっていなさい」と弟子たちに命じています。そして、信じるものたちの内に、創主の霊であるところの聖霊が入ります。これが聖霊のバプテスマです。
これによって、人の霊は新しくいのちを回復します。創主の霊は、いのちが湧き出る泉、放射源なのです。いのちというのは、一種のエネルギーのような概念です。電気に譬えるならば、人の霊は、これによって充電されるべき充電式乾電池のようなイメージのものに聖書ではなっています。
イエスの教えは、一口に言えば、「霊をいのちで充電する方法」に関する教えと言うことも出来るのです。そこで、この聖霊のバプテスマを受けることを、「霊から生まれる」の解釈とすることも可能なわけです。春平太も、そう解読していたときがありました。
しかし、これですと、聖書全体の論理体系に沿わなくなります。つまり、聖霊のバプテスマが「救い」(天の創主王国に入ること)の必要条件になってしまいます。
後にイエスは弟子たちに、「わたしの言葉を伝え、信じたものには、水のバプテスマを授けなさい。信じてバプテスマを受けるものは創主の国に行かれます」との旨を述べています。創主の王国に入るには、信じてバプテスマを受けるだけで、いいというのが、聖書の基本論理なんですね。
ここからは、神学的な意味を深く持ったイエスの言葉が多くなってきます。
まず、ニコデモというユダヤ教の指導者が登場します。彼はユダヤ教の中でもパリサイ派に属しています。
このグループは、「(旧約)聖書に記されているすべての律法に、厳しく従う」というのを主旨とする一派でした。そうすることによって創主を喜ばせようとしたわけです。
聖書には、サドカイ派という、もう一つ代表的なグループが登場します。こちらは、旧約聖書の全てではなく、はじめの五つの書物(モーセ五書と呼ばれるもの)に記されている律法にのみ従うべきだと考えたグループです。
サドカイ派の人々は、霊的なものが存在するとは信じませんでした。人間の復活などありえないし、天使も存在しないと考えていました。
そしてイエスの時代、祭司長の職務は、彼らによって占められていました。実質上、世襲されていた。国家宗教が形式化・固定化していたのですね。
なお、サドカイ派の人々は最高富裕層で構成されていました。パリサイ派は、言うなれば中間層です。
中間層といっても、今日の日本のように国民の多数を占める存在ではありません。最高富裕層も、中間層も、数としては一部の少数者で、大多数はそれ以外の低所得層や貧困層でした。産業革命前の人類社会はそんなものです。
また、現世的に最も経済的に豊かな人々が、霊的でなくなるのは、現代にも共通する傾向ですね。富裕層は、現世の生活を比較的よく楽しめます。そして、自分たちの富を守ろうと強く志向しますので、どうしても物的な側面への意識が大きくなるのでしょうか。
そもあれ、そういう舞台の中に、イエスは、自らの教えを広めていきます。彼の教えは本質的に霊界理論です。それをしるしと不思議(奇跡)でもって裏付けていく。上記のような環境の中で、彼の働きがいかに画期的・衝撃的であったか、想像してみて下さい。
@ @ @
さて、このニコデモさんは、パリサイ派です。そういう旧体制に属していながらも、彼はイエスに深い関心と好感を持っていました。
ある夜、イエスの所へこっそりとやってきます。そして、「あなたのなされる奇跡は、創主が共に有られないと、とても出来ないものだと思います。だから、わたしはあなたが創主のもとから来られた先生であると思うのです」と語りかけます。
これに対してイエスは、またまた相手が理解できないことを平気で言ってのけます。「人は新しく生まれなければ、創主の国を見ることは出来ないよ」と、イエスが応えたとヨハネは記しています。
ニコデモさん、何を言われたのかさっぱりわからない。それで「いまさら母の母胎に入って生まれなおすことなんて、人間にできませんよ」といいます。そりゃそうですよね。常識だ。
@ @ @
けれどもイエスはかまわず言っています「水と霊から生まれなければ、創主の国にはいることは出来ないよ。肉から生まれるものは肉であり、霊から生まれるものは霊である」と。
これは一体なんだ?
何を言っているんだ?
結論から言いますと、ここで「水」は「水によるバプテスマ」を「霊」はその時に臨む聖霊を意味しています。ここは「バプテスマの神秘」とでもいうべきところで、多くの説明が必要です。
しかし、それはカテゴリー「春平太チャペル」のなかの『洗礼は不完全信仰での決断による』の回をご覧下さい。結論的なところだけを言いますと、洗礼を受けるに際しては、当人の心の内に、「この世の論理」と「天の論理」とが併存する状態になっています。
「世の論理」とは、この世で暮らして身に付いてきているところの考え方です。「天の論理」とは、イエスの言葉によって心の内に形成される思想です。
そして、バプテスマを受ける前には、「世の論理」が前面に出ています。「天の論理」は、後方に控えているわけです。これがバプテスマを契機に逆になります。「天の論理」が前面に発つようになります。「世の論理」は、なくなりはしませんが後方に退きます。
これを実現するのが、聖霊の働きです。バプテスマには、聖霊のそういう働きが伴うようなのです。これを春平太は「バプテスマの神秘」と捉えています。
そして、こうなると、当人には、天国行きの資格が与えられるよ、というのがイエスの教えです。いわゆる「救い」というのは、このことです。が、ともあれ、イエスはこういう事態が生ずることを、「水と霊から生まれる」とニコデモにさんにいっているわけです。
新しい自分になって水から上がるのですから、まあ「新しく生まれる」というふうに言うことも出来るのでしょうね。
@ @ @
この「霊から生まれる」という部分を、「聖霊によるバプテスマ」と解す道もあります。
後にイエスは、「聖霊を受けなさい。それまでエルサレムにとどまっていなさい」と弟子たちに命じています。そして、信じるものたちの内に、創主の霊であるところの聖霊が入ります。これが聖霊のバプテスマです。
これによって、人の霊は新しくいのちを回復します。創主の霊は、いのちが湧き出る泉、放射源なのです。いのちというのは、一種のエネルギーのような概念です。電気に譬えるならば、人の霊は、これによって充電されるべき充電式乾電池のようなイメージのものに聖書ではなっています。
イエスの教えは、一口に言えば、「霊をいのちで充電する方法」に関する教えと言うことも出来るのです。そこで、この聖霊のバプテスマを受けることを、「霊から生まれる」の解釈とすることも可能なわけです。春平太も、そう解読していたときがありました。
しかし、これですと、聖書全体の論理体系に沿わなくなります。つまり、聖霊のバプテスマが「救い」(天の創主王国に入ること)の必要条件になってしまいます。
後にイエスは弟子たちに、「わたしの言葉を伝え、信じたものには、水のバプテスマを授けなさい。信じてバプテスマを受けるものは創主の国に行かれます」との旨を述べています。創主の王国に入るには、信じてバプテスマを受けるだけで、いいというのが、聖書の基本論理なんですね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます