鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.24『ナサニエルは軽薄ものか?(2)(1章)』

2004年12月09日 | ヨハネ伝解読
 前回、ナサニエルの言葉の意味に関する第二の解読として、次のものを示しました。

 すなわち、彼は「預言書(聖書)に照らして、ナザレから救い主が出るはずがない」、と言った、と。

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 この解釈ですと、その次のイエスの言葉にもつながりが出来ていきます。「ここにまことのイスラエルびとがいる。この人には偽りが何もない」(1章47節)がそれであります。

 イエスのいう「まことのイスラエル人」とはどんな人間でしょうか。それは、創主から受けた預言を堅く心に抱き、それに沿って生きる人です。そもそもイスラエル人の始祖としてアブラハムが選ばれるのは、彼がそういう素質を強く持った人間だったからであります。

 そのアブラハムを、創造主は、さらに、厳しく育てます。創主から出た言葉だけに沿って生きられるように、彼のふるさとを離れさせます。偶像の神々が伝統的に礼拝されているその地から、父母とも離れて旅に発てと命ずるのが、その訓練の最初です。

 そういう彼と同じ神(創造主)を拝し、その方からの預言に従う人であるというのが、イスラエル人で有ることの絶対条件です。そういう人々が繁殖してきたのが彼らの民族と言うことになっているのです。現代の彼らが全員そうであるかどうかは知りませんが。

 イエスはそれを洞察したというわけです。あるいは、ピリポに誘われたときに交わした会話を透視していたのかも知れません。そして続いて「この人には偽りが何もない」といいます。

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 偽りがない、とは真理があると言うことです。この場合の、真理、偽りの基準も聖書の言葉です。預言書に書いてあることが真理です。それに正確に沿って生きようとしているナサニエルをイエスは「偽りがない」といった。そういうことになります。

 けれども、結局はそれも一つの解釈にすぎない、という人もいるでしょうね。しかし、ここで、これを書いている著者ヨハネを考えてみたらいかがでしょうか。

 ヨハネは、この福音書を、言葉を選びに選んで書いています。彼の見たイエスの言動は、前述したように「もし、いちいち記すならば、全世界もその書いたものを収容できない」というほどなのです。

 そのヨハネが、「あんな下層の貧村から、大した人物が出るはずがない」というような、弟子の軽口をわざわざ記録するでしょうか。

「ナサニエルは、諸君の前ではあんなに偉そうな顔してたけど、最初はイエス様のことをこんな風に言ってた軽薄野郎だったんだよ」

   ~~といった程度のことを、凝縮した福音書の中でわざわざ言うでしょうか。

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 少なくともこの箇所以外を見ると、ヨハネ伝で採録されている状景、会話は、すべて皆、意味深いものばかりです。息抜きになるような軽いタッチの話は一つもない。文字通り、すべてにわたって重々しく、息苦しいくらいです。

 以上は単なる、理屈ではありませんよ。いわゆる「解釈」ではない。洞察です。まあ、第一のものとして示した解釈は、お子さま向きですね。お子さまランチ。

 ともあれ、イエスに「イチジクの木の下にいた」のを言い当てられたナサニエルは、一本参りました!と心酔してしまいます。イエスは、それにダメを押します。「この程度で心酔したのか。これからもっと大きなことを、キミは見るだろう」と。

 これで、カウント・テン。ノックアウトです。ナサニエルはイエスの5人目の弟子となりました。第1章は、この場面でおわります。
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