鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.179『終わりの日に、拒否したその言葉が諸君を裁く』(12章)

2006年10月04日 | ヨハネ伝解読



~~「ヨハネ伝解読」続けます。

                  

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=聖句=
 「私の教えをはねつける者に対しては、それを裁くものがあります。私の語った言葉が最後の(審判の)日にその人を裁きます」(12章48節)
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 政府権威筋のユダヤ人たちはイエスの言葉を信じたけれども、そのことを表明しなかった~~と前回ヨハネは記していました。その一方でヨハネはまた、群衆は信じなかった、と記しています。これはどういうことでしょうか。以前には、イエスを取り巻いた人々には、信じる人が多かったのに。

 取り巻く群衆の質が変わっているのでしょう。ラザロを生き返らせた時点から、変わってきた。エルサレム近郊で、みんなの見ている前で、死んで四日たっていた彼を生き返らせたことで、イエスは、もう、誰もが知る人になりました。

 地方区から全国区に人気が一変しました。

 それまでも、人気はありました。だが、歌手でいえば歌唱力に優れたクラブ歌手の人気。知る人は知っているというところがありました。そういうときには、ほんとうに何かを求めている人がイエスの話を聞きに来ます。

 ところがいまや、全国的スターなのです。こうなると、もう、歌なんかどうでもいい。教えを聞こうというよりも、スターを一目みたい、とやってくる人々が大多数を占めるようになるのです。

 イエスはこの段階で、もう教えを語るのはこれまで、と見切りをつけたのでしょう。後はもう、十字架で殺されるのみ、と悟ったのでしょう。

                  

 ヨハネにはそれが(少なくともこれの福音書を書く時点では)よくわかっていました。それが、ヨハネ伝における、イエスの最終説教場面に現れていまず。イエスが群衆に向けて行った説教場面の最後は、「教えの中で最も大事なこと」をもう一度繰り返したところになっています。

 それはなにか。「創主とイエスとは一つだ」ということです。

 「私を信じる者は、私をつかわされた創主を信じる者だ」と(44節)。
 「私を見るものは、創主を見るものだ」と(45節)。

 神学的にはむずかしいところです。群衆にはわかり得ないでしょう。わからなかろうがイエス語りました。ということは、これで諸君とはサヨナラだよ、ということであります。

 イエスは、こう宣言します。「私の教えをはねつけるものに対しては、それを裁くものがある。私の語った言葉が最後の(審判の)日にその人を裁く」と(48節)。

 すごい言葉ですね。---わたしの口から出る言葉は、永遠に世界を貫く法則として存在し続けるのだ。それは全能者の法なのだ。だから、最後の審判の日には、諸君らが受け入れを拒否したその言葉が現れて、その法でもって、諸君らは裁かれることになるんだ、---というんですから。

                  

 続いてその理由をイエスはこう語ったとヨハネは記しています。

 「私はこの言葉を、自分の思いで語っているのではないのだ。これは父がこのように語れとお命じになったものだ。・・・・私はそのままを語っているのだ」と(49~50節)。

 だから、私の語っているこの言葉は、諸君らが絶対者としている方、創造主の言葉なのだ、という。これが、父と子は一つ、ということの内容でもあります。だからこの言葉を受け入れないものは、創主の言葉を拒否するものということになる。

 有罪の裁きを受けるのは当然なことだ、というわけであります。これは群衆に向けてのイエス最後の切り口上だったと思われます。

                  


<創主の王国の法は創主の言葉>

 ただし切り口上というと、人間の世界では「相手を突き放して交信を断ち切る言葉」というニュアンスのものになります。ある程度感情的な含みもある言葉となります。だが、イエスがここで述べた言葉は、きわめて筋の通った論理的なものであります。

このブログの「Kingdom原理からの聖書解読」というカテゴリーで春平太は次のように書きましたよね。~~天の創主王国は、民主国ではなく王国である。民主国では人民の総意で法が作られるが、王国においては王の言葉がそのまま法になる、と。

 天の創主王国の王は創造主です。イエスの父なる創造主です。ここでは創造主から出た言葉がそのまま法になます。裁きはその法によって行われます。

                  

 われわれの住む「世」(宇宙)は天の創主王国の一角に作られた暗闇です。この世界の統治権は一時的に悪魔に与えられています。悪魔は(人間に影響を与えて)「世の法」をつくり「世」ではそれによって裁きがなされています。

 しかし、この世(宇宙)はある時消滅することに聖書ではなっています。

 「・・今の世の天と地とは、おなじ御言葉によって保たれ、不信仰な人々が裁かれるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれている」(ペテロの第二の手紙、3章7節)

 ~~という聖句はそれを示しています。

 「不信仰な人々が裁かれるべき日に」とはいわゆる最後の審判の日であり、イエスがこの章で「終わりの日」と言っている日です。このとき「世」は消滅していますので、もう「世」の法が通用する空間はありません。それまで世にいたもの全ては「世」を出て、天の創主王国の法だけが通用する空間で裁かれることになります。

 では、その創主王国の法とは何かといえば、上述したように父なる創主から出た言葉です。そしてイエスはこの12章で~~

「私はこの言葉を、自分の思いで語っているのではないのだ。これは父がこのように語れとお命じになったものだ。・・・・私はそのままを語っているのだ」(49~50節)

 ~~と言っていますからね。イエスが語り、群衆がはねつけている言葉は、実は創主の言葉であり、天国の法だということになります。イエスはその法が最後の日(最後の審判の日)に人々を裁くといっているわけでして、きわめて論理的で筋の通ったことで、感情的な要素など介入する余地はない話です。

                  


                  
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『図解、聖書のことがよくわかる本』が文庫本に

2006年10月01日 | ヨハネ伝解読
                  

『図解、聖書のことがよくわかる本』が文庫本になりました。
タイトルは、「聖書が面白いほどわかる本」とされています。
(こういうことは出版社が編集会議で決めます)

 東京の書店には、10月3日頃ならび、地方の書店には10日頃に店頭陳列されるそうです。

 ポケットに入るサイズとなり、文字も小さくなく、喜んでおります。
 聖書の全体観をもってもらうのに助けになれば幸いです。

 親本の初版は1999年に出されています。
 このときすでに、「ヨハネ伝」を特別扱いしているのを見て、苦笑しています。

                   鹿嶋春平太


                  

コメント (3)
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