鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

イエスを支援した富豪たち

2022年06月10日 | 永続確信のための聖書解読

 

 エルサレムでのイエス宣教は、大衆には広がらなかった。 

・・・前回そう述べたが、イエスの宣教は~それ以前のガリラヤ宣教の頃から~意外な結果を生み出していた。 

 

 富豪たちがイエスを支援し始めていたのである。 

 

 

<福音書に名を残した男> 

 

 

 福音書には、アリマタヤのヨセフという名が登場する。 

 

 「ルカの福音書」によれば、彼はイスラエル政府の議員だったが、イエスの死後、ローマ総督ピラトにその死骸の引き取りを願いでている。

 そして許可を得て十字架から死体を下ろし、処刑場近くにもっていた新しい墓にイエスを葬っている。 

 

+++ 

 

 その墓は、山肌を横方向にくりぬいてできたもので、大人が2~3人たって歩けるほどの空間をもった巨大なものであった。 

 入り口は大きな石の板をころがして閉じられるようになっていた。 

 

 イエスの遺体は、長い亜麻布で巻いて、中央の台に寝かされた。 

 

  そんな墓を使わずに所有しているというのは、かなりな富者でないとできない。 

 

 

<最後の晩餐の会場と食事> 

 

 アリマタヤのヨセフ以外にも、イエスを支援した富豪の存在は推定できる。 

 

 「最後の晩餐」で有名な晩餐は、イエスが弟子と共に「過越の祭り」の夕食会場だった。 

 

 イエスは弟子に、「ある男について行くと、会場と共に過越の食事も備えられてるよ」と軽く言っている。 

 

 そんな会場を首都エルサレムの市街でイエスに提供してた人物は、やはり富豪のイエス支援者以外に考えられない。 

 

 

<「マルコの部屋」は門前町の超一等地> 

 

 120人のイエス信徒が聖霊のバプテスマを受けた「マルコの部屋」もそうだ。 

 

 イエスは昇天する前に、弟子たちに「エルサレムに留まっていなさい」と言い残した。 

  

 その言葉通り、120人の信徒たちが一堂に会していたのがその部屋だ。 

 

 そこに聖霊が降臨する音を聞いて、神殿広場に来ていた参拝者が、部屋に殺到してきている。 

 

+++ 

 

 我々は『使徒行伝』におけるその記述を、何でもないことのように読んできているが、この事態も普通ではない。 

 

 エルサレム神殿広場で音を聞き、駆けつけられる距離にある土地は、神殿の門前にある超一等地だ。 

  そこで120人もの人が一堂に会して祈っておられた巨大な部屋は、普通の不動産ではない。 

 

 この部屋を弟子たちが持っていたはずもない。やはり、富豪のイエス支援者が提供していたのだ。 

 

 

(続きます) 

 

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「奇跡」の哲学効果は短い

2022年06月09日 | 永続確信のための聖書解読

 

 奇跡は定義すれば「既知の自然法則を超越した新現象」とでもなろうか。 

 

 でも、具体的に考えないとイメージがわかない。 

 

 イエスが多く行った「癒やし」の奇跡、たとえば「盲人の目を瞬時に開く」癒やしに沿って考えてみるとそれは~ 

 

①「従来なかった」ものだから新しく、 

②「原因が五感認知できない」が故に「奇」なるものだった。 

 

 この「新にして奇なる五感現象」に、イエスの癒やしの場合はもう一つ~ 

 

③「人間にとって喜ばしい出来事」で歓迎されるものだった。 

 

~という特徴が加わっていたが、それは付け足しだ。 

 

 

<イエス理論は難解だった> 

 

 たしかにイエスが宣教に先立ってやってみせた奇跡は、人々を驚かせ、探究心を創成した。 

 

 だが、そういう感情は短時間なものだ。

 人々の感覚はしばらくするとまた、日常状態に戻る。 

そのつかの間の探究心・好奇心に、イエスは霊界理論を注入した。 

 

 けれどもその理論も、人々の心に長くは留まらなかった。 

  聴衆の多くを占める庶民には、イエスの説く深遠な霊界理論は難解で、彼らはしばらくすると忘れてしまった。 

 

<ユダヤ教ワールドでの宣教> 

 

  中には記憶に長くとどめる者もいただろうが、表立たなかった。 

 

 当時のイスラエルは、ユダヤ教が唯一国教として支配する、政教合一の宗教国家だった。 

  特にエルサレム神殿では、高僧たちも広場を巡回していて、イエスに共感する姿勢を示す者には処罰が待っていた。 

 

+++ 

 

 イエスが行った奇跡は、即座に大ブームを巻き起こした・・・というのは空想だ。 

 それは、後の時代におけるキリスト教大発展を知る我々だけが抱く連想にすぎない。 

 

 エルサレムでのイエス宣教から最も学んだのは誰かと言えば、彼に付き従い聞き入った弟子たちだったろう。 

 

(続きます) 

 

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奇跡は「哲学」を誘発する

2022年06月07日 | 永続確信のための聖書解読

 

  エルサレム神殿の広場で、イエスは旧約聖書には一度も出てこない「天国」を語り始めた。 

  「悔い改めよ。天国は近づいた」と口火を切った。 

  

+++ 

 

 ちなみにこの「悔い改める」は英語では「リペント(repent)」だが、いい邦訳語がない。 

 その本意は「正しい方向に改める」という、未来志向というか「前向き」ニュアンスだ。 

 

 だが日本人は「改める」というと「後悔する」という後ろ向きの心情を持ってしまう。 

  名詞のrepentanceも「後悔、悔悛」などと邦訳されていて、事態は同じだ。 

 

 ホントは「正しい方向に」という修飾語をつけたいところだが、それでは用語が長くなってしまう。 

  そこで、他にないから、と言うことで、日本では「悔い改める」がキリスト教の専門用語になっている。 

 

 外部者は、何度聞いてもよくわからないだろう。

 

+++ 

 

 話を戻す。 

 

  ナザレの寒村からやってきた一青年が,突然「天国はこうだよ」と述べても、人びとは一笑に付すだろう。 

「田舎の若造が何をほざくか・・・」 

 

だがイエスは説教の前に、奇跡をやって見せた。 

  

<驚愕は哲学のはじまり> 

  

 スコットランドの歴史家、カーライル(Thomas Carlyle, 1795-1881)に「驚愕は哲学の初まり」という名言がある。  

  

 この「驚愕」は五感に強いインパクト(衝撃)を受けることによってできる「驚きの感情」を意味している。  

 

「哲学」は「見えない世界への思索活動」を意味している。  

  

 つまり、人は五感で驚くべきことを認識すると、見えない世界への思索を誘発される、というのだ。  

  

+++  

  

 イエスが行った奇跡は、この「驚愕」心理形成の役割を果たした。 

 

   彼はある時は、脚萎えの男を歩かせ、

 別の日には、耳の聞こえない人を、即座に聞こえるようにし、

 またある日には、盲人の目を開いた。 

  

(続きます) 

 

 

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「花のエルサレム」に登場する

2022年06月06日 | 永続確信のための聖書解読
 
旧約聖書の最後の預言書である「マラキ書」が、出てから長い沈黙の時がながれた。
 
イスラエル国家はローマ帝国の属国になっていた。
その統治形態は、敗戦後の日本に似ている。
戦勝国米国のGHQ総督マッカーサーにおうかがいをしながら、日本政府は日本人を統治していた。
 
これと同じように、イスラエルの王が、ピラトというローマ帝国のイスラエル地方担当提督におうかがいしつつ、自分の民族を治めていた。
 
 王国ではモーセがとりついだ律法をもとにしたユダヤ教が発展し、国教として堅固な地位を占めていた。
 
+++
 
イエスはこのイスラエルのガリラヤ湖周辺のナザレという寒村で、大工として生活していたが、
ある時、奇跡を行い、霊界の事柄を述べ始めた。
 
故郷ガリラヤ地方で、彼に学びたいと望む若者12人が弟子になった。
 
そしてイエスは、弟子をひきつれて首都エルサレムに進出した。
 
日本の歌謡曲に「花の東京のど真ん中・・・」という歌詞がある。
 
彼は、多数の参拝者がつどい集る「花のエルサレム神殿」の広場で、霊界理論を語りはじめたのだ。
 
(続きます)
 
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「永続確信」考察の仕方  

2022年06月05日 | 永続確信のための聖書解読

 

さて、イエスの言動にはいる。 

 それが人々に永続確信を与える過程を探求する。 

 

<複雑な視野を> 

  

この状況は、若干複雑だ。 

 

① まず、語る筆者の手元には「イエスの伝記」(福音書)が四本ある。 

  筆者はそれを手がかりにして、活動したイエスと弟子たちのイメージを抱いて語る。 

  

② 他方、イエスに語られる弟子たちの手元には、福音書はない。 

   代わりに彼らの眼前には「生身のイエス」がいる。 

  

③ そうした福音書など何もい弟子たちと、それに対応して語り行動していくイエス・・・ 

  この両者の間の時々刻々とした動きを、追体験する鹿島春平太がいる。 

  

+++ 

 

~この構図はややこしいが、弟子たちの心に形成される「確信」をみるのが

目的だから仕方ない。 

  

 筆者はイエスの同時代人でないから、生身のイエスの語り口を直接聞くことはできない。 

 追体験は「福音書」という文字で記された文書を元に行われれる。 

 

 その際、弟子たち~「たち」とは「他の人々」も含めて言っている~の心理と

その反応も考慮に入れて、イエスの具体的な言葉を解読するのだ。 

 

<前例なき試み> 

 

 こういう読み方は、従来されてこなかった。 

 これまでは「イエス様の言葉は神の言葉です! 」と牧師さんは教えるし、彼自身も、その姿勢で読んできた。 

 信徒はどんなみ言葉も「アーメンで受けなさい!」と言われて読んできた。 

 

+++ 

  

 だがイエスは実際には、その時々の人々の姿勢と反応を見た上で、メッセージを発信した(語った)はずだ。 

 

 だから概して、後の教えになるほど、深く、高度になる傾向を持つと推測される。 

  そういう特徴を見ながら、イエスの教えを見ていこうと思う。 

 

 どうでもいいことだが、この読み方は、本邦初であるとともに、おそらく世界初だと思われる。 

  用いる福音書は、その内容が最も正確と思われる「ヨハネ伝」を主とし、必要に応じて他の福音書の聖句も用いよう。 

   

(続きます) 

 

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イエス物語に向けて

2022年06月03日 | 永続確信のための聖書解読

 

 今回は、地上で展開するイエスの言動の予告編のような話を。 

 

<「世の君」だって?> 

 

  前回にみた、劇画のような事件は、霊的な世界での出来事である。 

 

 後にこの宇宙の中に創られる人間には、そういう霊的なことは見えない。 

 

 人間は霊が肉体を着るようにして創られる。 

 その結果、五感は明瞭な認知力を持つが、霊感はか弱くその認識は漠然だ。 

  宇宙の霊的事象は認識できない。 

 

 だが、さらに後に、この世界に人の形をとって住まうようになる創造神の子イエス~「人の子」イエス~には、それが見える。 

 

 そこで、イエスと弟子たちの間に交信が全く不能な事態も発生する。 

  

+++ 

 

 新約聖書には、十字架刑死を前にしたイエスが~ 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 「この世の君がやってくる」 

     (ヨハネによる福音書、14章30節) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

  ~と突然言う場面がある。 

 

 弟子たちはチンプンカンプン、何を言っているかわからない。イエスも敢えて説明しない。 

 

 後の福音書読者もさっぱりわからない。 

 上記はそういう場面だ。 

 

 <「世」は宇宙> 

 

 だが聖書の空間理念のイメージをもつ者には、推測できる。 

イエスは「この世」で「宇宙」をいっているのだ。 

 

 「君」とは言語上の意味は君主だが、ここでは宇宙という牢獄で、牢名主として君臨する悪魔(サタン)を言っている。 

 

 悪魔は時至るまでは、この世の支配者なのだ。 

 

+++ 

 

 この意味はこの場だけものではない。 

 

 聖書では基本的に「世」とか「黄泉(よみ:暗いところ)」は「宇宙」を示唆しているし、「世の君」「この世の支配者」は悪魔を意味している。 

 

だが、それは聖書全体が示唆している「世界の全体像」を把握しないと見えてこない。 

 

 <イエス、悪魔軍団と激闘> 

 

 「この世の君」は霊的手段を使って人間を苦しめる。 

 「人の世」には悲劇がつきない。悪魔はそれが至高の快感という属性を持ってしまった、本源サディストなのだ。 

 

 そこにイエスが「天」(父なる創造主の懐)からやってきて、人間が救われうる道をつくろうとする。 

  父なる創造主は、その仕事を御子が天の王座に就くための試練として与えているかにもみえる。 

 

 御子イエスはそのための悪魔との激しい戦いを~エルサレム郊外のゴルゴサという丘のうえで~十字架につるされた状態で行う。 

 

 悪魔には配下の軍団が協働し、イエスには天使軍団が援助する。 

 その激闘は、天地を揺るがし、太陽の光すら通らなくする。 

 

 だがそれは物質界に平行して存在する霊界での出来事だ。 

  五感しか働かない観衆には「地震が起きた」、「午前中なのに一帯が暗くなった」、としかみえない。 

 丘の上にイエスを真ん中にしてつるした三本の十字架を遠望するのみだ。

 

 その状態で三時間がたち、受刑者は徐々に弱っていく。

 

 そのなかでイエスは救いの道を完成する。 

 そして「完了した・・・」という言葉とともに肉体の命を終える。 

 

 それらの事件を含むイエスの活動、我々に永続を確信させる言動を次回から見ていこう。 

 

 

(続きます) 

 

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宇宙が悪魔の君主国になる

2022年06月02日 | 永続確信のための聖書解読

 「聖書の空間理念」さっそく援用してみよう。 

 

 天使が職分ごとにグループに属して働くことは前述した。 

 そこに創造主を賛美するグループもあった。 

 

 賛美は重要な職分である。 

その天使長は姿かたちも知性も卓越したものに創られていた。グループも大きかっただろう。 

 

+++ 

 

 ところが、あるとき彼は自分も創造主のように賛美されたいと欲求する。 

 

 そして天国の一角で配下の天使たちに自分を賛美させはじめる。 

 

 

<天使長が悪魔に変質> 

  

 これは重大な職務違反で反逆である。 

 

 創造主はどうするか。ここで「空間理念」を援用して解読しよう。 

 

+++ 

 

 創造主は戦う天使団をもちいて彼を、「宇宙(牢獄)」の中に追い落とすのだ。 

  

 天使には「悔い改め」の心はない。 

 彼は創造主への対抗心を持ち続けるうちに、悪魔に変質する。 

 

 そして天使長だった身分を生かして牢名主となる。 

  

 牢名主は、牢屋の中で君臨する君主だ。 

 悪魔は、宇宙という空間の中での君主となるのである。 

  

 今回ここまでにしよう。 

 

(続きます) 

 

 

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聖書の空間理念

2022年06月01日 | 永続確信のための聖書解読

 

 天使は職分ごとにグループ化され、「命令 ⇒ 服従」の原理の元に働く軍人精神の霊であることは前述した。 

 

 

<宇宙を創造する> 

 

 だがその「服従」行為はロボットのように機械的になされるのではない。 

  天使には自由意志が与えられていて、服従もその意志によってなされるように創られている。 

 

 基本が自由意志によるものだから、職分に従わず、反逆することもあろうる。 

  創造主は、そうした天使をとらえ、裁きのために収容する牢獄をも天国の一角につくっている。 

 

 それが宇宙である。 

 

<地球と人間の創造> 

  

 そして、創造主は後に、なぜかその中に地球を創り、そこに人が住めるような環境を整える。 

 

 旧約聖書『創世記』の冒頭のこの場面がそれにつながっている。 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

「はじめに創造神が天と地を創造した。地は茫然として何もなかった。

やみがおおみずのうえにあり、神の霊が水の上を動いていた。 

創造主は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。」 

 (『創世記』1章1-3節) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

  以後、創造主はそこに人間を創造していくのだが、ともあれ、こうして創造神と被造物が演じる物語の舞台はできあがる。 

  いまそうした空間理念の概念図を描いておこう。 

 

 

 天国も宇宙も地球も球体とイメージしておいて差し支えないだろうから、そう描いてある。 

 

 (続きます) 

 

 

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