仕事で恵比寿に行ったので、ついでに、東京都写真美術館で『マリオ・ジャコメッリ展』を観て帰った。頭痛がよけい酷くなった。
ジャコメッリといえば、代表作、かもしれない作品、を何点か記憶しているのみで、ハイコントラスト化や焼き込みによって、あざといまでのイメージを作った人との印象しか持っていなかったのが正直なところだ。最初の何枚かを観て、その印象が如何に偏ったものであったかを悟った。そのような技術など、彼のもつ手段の極小の一部にしか過ぎないのだった。最近稀なくらいの衝撃を得た。
ジャコメッリは、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの作品に依拠した写真群も残しているようだ。そうだ、ボルヘスの小説をはじめて読んだときの衝撃、暗闇の中の暗闇、絶望感、立眩みといったものに似ている。
遺作『この想い出をきみに伝えん』では、まさにそのボルヘス的イメージを顕在化したような世界が、乱暴でかつ多彩な技術によって提示されている。多重露出、焼き込み、ぶらし、ボケ、粗粒子化、乳剤のコントロール、そしてそれらのコラージュ。極めて硬調な印画紙と低感度のフィルムを使ったハイコントラストさが、よくジャコメッリの作品を評するときに使われる「生と死」のイメージを喚起するのは確かだ。しかし、そこから脱出して、闇の中で朦朧としなければ、ジャコメッリの姿が見えない気がする。
決して技術偏重ではなく、内面で無数の相になった世界を垣間見せてくれる感がある。代表作、かもしれない、司祭たちの姿を刻んだ『私には自分の顔を愛撫する手がない』などでも、まず1年間位はそこに通い、溶け込んでから、撮影を行っている。その挙句の、予定調和とは程遠い作品群は何なのか。
詩と結びついたイメージを結像させた作品群も凄い。『夜が心を洗い流す』など、言葉で表現するのが馬鹿馬鹿しいほどの力を持っている。
今回の展覧会にあわせてナディッフから発刊された図録の印刷も秀逸。すべての作品が収録されていないのが残念ではあるが。
「現在を生きることにのみかまけているわれわれは、ジャコメッリの写真に触れて記憶の古層に引き込まれ、同時にその記憶を現実の世界のなかに引き出そうと考えるようになればいいのである。」(多木浩二『マリオ・ジャコメッリの詩学』、図録より)