臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る 近代市民社会の黒い血液』(中公新書、1992年)は、コーヒーの誕生からはじまり、中東、アフリカ、南米、そして欧州などで文字通り歴史を駆動する「黒い血液」ぶりを描いた、途轍もなく面白い本である。書棚から引っ張り出してきて、10年ぶりくらいに読んだ。
なぜコーヒーが歴史を動かしてきたのか。その答えのひとつは、終章において著者が書いているように、コーヒーを飲むということが前提としている条件が、極めて不自然、人工的、文明的であることに起因する。すなわち、ヨーロッパから遠い世界でコーヒーが生産され、最終的に届くまで一切の産業構造が機能していなければならない。この地域や開発水準の偏りは、奴隷や植民地支配といった血塗られた歴史に結びつく。
この過程で、中東とヨーロッパの果たした役割が大きかったことが、さまざまなエピソードとともに示されている。これらが、頭を揺さぶられるようでとても興味深い。
○15世紀イエメンにおける起源伝説からコーヒーの歴史もはじまる。当初はスーフィーたちの宗教上の飲み物であり、「黒いザムザムの聖水」であった。いうまでもなく、ザムザムの泉はメッカにある。
○イスラーム世界において、コーヒーを飲む場は、公共浴場(ハンマーム)のような、新種の社交場となった。
○ほどなく17世紀、「コーヒーの家」は、ヨーロッパにも広がった。そのころ、コーヒーの唯一の供給源はイエメンであった。港町モカの特殊性は、ここだけがヨーロッパの船舶が寄港を許されたことにある。イエメンは「幸福のアラビア」であり、紅海は「ルージュ色の海」であった。
○この頃から既に、当然のように商社機能が発達し、現代にもなお残る大きな差額構造が出来上がった。
○17世紀の「コーヒーの家」は、「カンバセーション」という、市民社会で必須の技術を開発するにあたって大きな役割を果たした。ここには、判断を異にする人々が集い、宮廷社会などとは異なる多種多様な層と会話・討議が交錯した。すなわち、近代市民社会は、じっくりものを考えるということよりも、情報、敏捷性、社交性などを徳として、血の廻りを促進するものだった。
○ロンドンのコーヒー文化は男性偏重であることから定着に至らず、特に女性を捉えたのが紅茶文化となった。一方パリでは、逆に女性の存在が鍵となり、カフェ文化が根を張った。このことは、フランス大革命の盛り上がりに無縁ではなかった。
○ナポレオンの大陸封鎖により、ポルトガルが海を渡り、ブラジルという国家を誕生させた。同時に砂糖の欠乏は甜菜糖業を発達させ、やがて砂糖を輸出できないブラジルがコーヒー栽培へと大転換することとなった。
○17世紀から18世紀にかけて栄華を誇った幸福のアラビア、イエメンは、20世紀には近代の国際商戦に破れ、寂れきっていた。
まだまだあって、コーヒー好きには、このうねりの中に身をゆだねることを勧めたい。
「強調された差異がもっぱら自然的な差異であり、社会的歴史的差異を隠蔽するのは商品フェティシズムの常である。商品フェティシズムは、商品の社会的由来が意識できないものとなり、商品を一種の自然物として存在させてこそ真の商品フェティシズムである。人類と社会の生産・交通関係の結果として遍在しながら、その社会的由来を隠蔽する、この遍在と隠蔽の共存する存在様式こそ、商品フェティシズムの神秘である。」(本書227頁)
なお、メインストリートのコーヒーからはさらに外れた話。かつての「幸福のアラビア」、いまでも少ないながら独特の味を持つモカ・マタリを生産するイエメンでは、輸出した残りである皮殻を煮だして飲んでいる。街の中で「コーヒー」を頼んで出てくるのは、この「ギシルコーヒー」だ。決して不味くはなく、お茶のようなものだが、そこにある社会構造と歴史は苦い。
イエメン・サナアのギシル売り、1997年 PENTAX MZ-3, FA 28mm/f2.8, Provia 100