Sightsong

自縄自縛日記

三番瀬(5) 『海辺再生』

2008-05-10 09:11:37 | 環境・自然

NPO法人・三番瀬環境市民センターによる『海辺再生・東京湾三番瀬』(築地書館、2008年)が出ていたので早速読んだ。表紙に、去年観察会に参加したとき(→リンク)の私の姿が写っている。何だか間抜けだ。

前半は、主に最近のNPO三番瀬や三番瀬フォーラムによる、自然保護と再生に向けた取り組みの内容が具体的に書かれている。とくに三番瀬付近からほとんど消えてしまったアマモを再生しようとする動きについては、その執念や熱意に驚かされる。漁協や市などを説得しながら、富津のアマモを移植し(富津にも東京湾で数少ない干潟が残っている)、工夫して植え付けをし、厳寒の海でもモニタリングを行うというすごさであり、尊敬にあたいする。その、育成中のアマモの観察は面白い。酸素を水中に供給しながら、生き物たちの棲家となっていて、貴重なギンポ、メバル、シバエビ、アサリの稚貝などがアマモという場所を活用していたという。実験的にごく一部に植え付けただけなのに、そこを生き物たちが見つけ、最適化をはかるということは、本書にも書かれているが、あらためて不思議なことだ。

本書の後半は、主に80年代からの三番瀬保全の経緯、とくに千葉県での意思決定方法のまずさについて説明がなされている。このあたりは、三番瀬埋立の白紙撤回を掲げて堂本現知事が当選し、三番瀬についての円卓会議がスタートした2001年に書かれた『三番瀬から日本の海は変わる』(三番瀬フォーラム、きんのくわがた社、2001年)とあわせて読むと、議論や雰囲気の変化が把握できる。前書のあと、円卓会議の議論は停滞し、このNPOも議論の場から離脱する。従って、行政の場での議論についての書きっぷりも、この2冊の間には大きな乖離がある。

あらためて今回の本書で主張していることは、「三番瀬の特性や歴史について知見を持たないメンバーをへんに含めたやり方は間違っている」ということだ。とくに論点として、人為的に開発された結果衰えてしまった三番瀬に対して、植生や干潟の回復の特別なてこ入れを行い、市民が海にアクセスしやすいような都市計画(道の駅、公共交通など)を進めるべきだということが主張されている。このあたりについては、乱暴に言えば「三番瀬について長く研究し、知見をもっとも持つメンバーが、行政をコントロールし、良い方向に持っていくべきだ。素人を含めた全会一致原則などでは話がいつまでたっても前に進まない」ということだと思うが、半分は納得しつつも、半分は違和感を禁じえない。仮に議論のトレーサビリティを確保してもらったとしてもだ。これまでの実績に裏付けされた矜持は、環境エリート主義と表裏の関係にあるような印象を、どうしても持ってしまうのだ。勿論、主張内容には、「素人」としては概ね賛成なのだが。

三番瀬を巡る「諍い」を、逆の側から書いた、『公共事業は変われるか 千葉県三番瀬円卓・再生会議を追って』(永尾俊彦、岩波ブックレット、2007年)というものもある(→リンク)。この内容については全く評価できないのだが、「三番瀬保全のための開発」が、なし崩しに「第二湾岸道路を含めた、開発のための開発」になってしまうのではないかという危惧に関しては、確かにひっかかるような気がする。

来年行われる千葉県知事選において、湾岸の開発がどのように争点となるのか、あるいはあえて伏せられるのか、という点にも注目しておきたい。