Sightsong

自縄自縛日記

森山大道展 レトロスペクティヴ1965-2005、ハワイ

2008-05-22 23:59:30 | 写真

所用で恵比寿に行った帰りに、東京都写真美術館で開催中の『森山大道展 I. レトロスペクティヴ1965-2005、II. ハワイ』を観た。

『レトロスペクティヴ』では、『プロヴォーク』への掲載作品、『写真よさようなら』、『何かへの旅』など、森山大道の代表作とされるものを観ることができた。面白いのは、60年代、70年代の雑誌掲載作品が、印刷とオリジナルプリントとでクオリティがあまりにも異なることだ。雑誌の印刷により、極度にハイコントラストさが強調されたことが、森山大道神話の形成に一役買ったのではないだろうか、とまで思わせる。だからといってそれがメディアのトリックだと言う気は毛頭ないのであって、オリジナルプリントの持つ存在感は、現在まで観る私を圧倒する。

これまで森山大道について感じていたこと。仁侠映画的にまで肩で風を切っておきながら、その実はシャイで、小心であるのではないかということである。スナップにおいても、相手に気付かせないという意識が作品に染み出ていて、実際、後姿やおそらくノーファインダーでの撮影が目立っている。今回作品群を観ながら思ったのは、これはひとが息をしながら見るぎりぎりの視線と重なるのではないか、といったことだ。その意味で、表面の<擦れ>も、背後にあるかもしれない<意味>も、結果としての<印画紙>も、全て表面であり、かつ内面である。しかし、この衡平さは絶望的なところに成立しそうではある。そして、森山大道の写真には、エネルギーとその裏返しの無力感が横溢している(写真よさようなら、か)。

最近の『ハワイ』では、痛いほどまぶしい光が、印画紙の<白>となってこちらがわにまわりこんでいる。新しい森山大道にも、まったく変わらない森山大道にも見える。

『ハワイ』の展示の一角では、撮影風景の映像を上映している。40分くらいはありそうだ。音楽がジム・オルークの飽き飽きするもので悪くない。森山大道は、オリンパスのOM-1か2、リコーGR-1やGR-21、オリンパスペン(だろうか)、などを幾つも下げて、視線を焼き続けている。あまりにも不自然な様子(木村伊兵衛のような溶け込む自然さとは対極的)であり、存在の違和感が妙に嬉しくなるのだった。

参考
『季刊d/SIGN』の「写真都市」特集
『SOLITUDE DE L'OEIL 眼の孤独』

 

mo