昨晩、アジア記者クラブの主催による、イラン大統領選挙についての勉強会に参加してきた。それで「金曜礼拝」に注目すべきとのことで、今朝の朝刊を読むと、ラフサンジャニ元大統領がアハマディネジャド大統領の再選結果にはっきり異議を表明したということ。米国の介入を含め、嫌な展開にならなければよいけれど。
一昨日大阪梅田の地下にある古書店「萬字屋」に立ち寄って見つけた、加々美光行『現代中国の黎明 天安門事件と新しい知性の台頭』(学陽書房、1990年)。チベットやウイグルと中国共産党イデオロギーとの関連を丹念に追った『中国の民族問題』(岩波現代文庫、2008年)の著者が、第2次天安門事件(1989年)の直後に検証したものである。事件から20年が経つ(ちょうどインフルエンザの流行のため、私は20年目という節目に天安門広場に立つことができなかった)。
事件の前に民主化を進めようとして失脚し、最後の賭けに出て死んでしまった胡耀邦。あとを追うように失脚した趙紫陽。権力の中心にいた鄧小平。いまや全員鬼籍に入っているが、彼らの動きがどんなものだったのか、改めて把握したかったので、読みかけの本を脇にどけて早速読んだ。
天安門事件というひとつのカタストロフが、国家権力の一枚岩と民主化勢力との衝突という単純なものではなかったことを、本書は非常によく示している。共産党統治だけではなく軍統治の問題であり、鄧小平が軍の力を背景に実質支配していたこと。軍の内部に亀裂があり、クーデターさえ起きかねなかったこと。そして共産党や軍の世代として、革命世代、文革の紅衛兵世代、ポスト紅衛兵世代と分けてみた場合に性向が大きく異なること。
特に世代論に関しては興味深いものがある。革命でも文革でも、それぞれ2000万人程度の死者を出したと言われている。毛沢東や周恩来とつながる革命世代の鄧小平は、89年、「われわれは2000万人以上の党員の命を犠牲にした。それなのに、どうしてこの山河を簡単に他人に引き渡せようか」、そして天安門の弾圧に際して「10万や20万ぐらいの犠牲は大したことはない」と語ったという。これに対して、やはり「政治的暴力が人びとを虫けらのように殺すものだということを実感をもって知っている」紅衛兵世代は、革命に勝利したのでなく裏切られた世代であり、「革命の名によって正当化された政治的暴力を否定するようになった」のだとする。さらにそのような背景を持たない世代。
著者は暗に、世代交代に期待を持っているようだ。本書は江沢民の登場までを追っている。外部から民主化の力として働いたゴルバチョフ(胡耀邦はゴルバチョフから大いに刺激を受けていた)にも期待を寄せている。だが、ゴルバチョフはソ連クーデターにより失脚し、中国ではいまだチベットやウイグルの支配において暴力的な形をとらずにはいられない状況が続いている。『中国の民族問題』で論じられたように、民族自決権を階級闘争と捉えていることの問題と違うようだが、根は勿論同じである。
今日の『東京新聞』(2009/7/18)によれば、ウイグル問題が昨年のチベット暴動に比べて国際的な反応が鈍いのは、ウイグルの位置付けが「米国の対テロ戦」に便乗したものになっているからだ、という。それでは、中国と奇妙な呉越同舟になっている米国は、何を仕掛けているのだろう。
本書では、民主活動家の劉暁波の登場の様子を描いてもいる。劉暁波は、中国の悪い面での伝統文化を極端に批判したのであり、それはアンバランスであったと本書では評価している。だが、いまだ劉暁波は自宅拘束され、最近(2009/6/23)では中国共産党の一党独裁を批判する『08憲章』を発表した件で逮捕されている。いまと20年前とを比較してみて、本質的に何が異なるのか。
●参照 加々美光行『中国の民族問題』