Sightsong

自縄自縛日記

上海の莫干山路・M50(下) 蔡玉龍の「狂草」

2009-07-20 21:24:01 | 中国・台湾

割と入口が広めのギャラリー「莫干山99工作室」では、蔡玉龍(ツァイ・ユーロン)による書の展示がなされていた。一見、何だこれはというごりっとした違和感に襲われる。テーブルには日本語のチラシもあり、どうやら今年4月に青山で個展を行ったばかりのようだ。


日本語チラシの一部

書でありながら、葡萄のようで、藤棚から垂れる藤のようで、また窓に付いた雨露のようだ。しかも、「Buddist Monk」というシリーズでは、一筆書のような背中を向けた仏僧が真ん中下にあまりにも場違いに描かれている。もの凄い求心力なのだ。素晴らしい作品に出会うと、眼が悦び、心臓が跳ねるような気持ちになるが、まさにそれだった。

行きつ戻りつして何度も観ていると、書家または画家である蔡玉龍氏がニコニコしながら出てきて、感想を求められた(多分)。こちらは中国語が話せないし向こうは英語が話せない。秘書の女性を介して、お茶を飲みながら英語で話をした。

藤を思わせるねと印象を述べたところ、実は一連の作品は、日常的に眼にしていたヘチマ(同じつる性の植物)からインスピレーションを得たのだとはね返ってきた。これらは「狂草」というスタイルを受け継いでいると自認しており、王義之の模倣から脱却した唐時代の奔放な書家の流れにある。氏はもともと画家であり、この書も中国人であっても読めるようなものではないという。唐時代のさまざまな書も見せてもらった。

突然ちょっと待っていてくれと姿を消したと思ったら、しばらくして、作品集に筆で署名をして贈ってくれた。話し続けながらそれを観ていると、ジャクソン・ポロックを思わせる作風の作品も掲載されている。確かにさっき、自分は「表現主義」なのだと言っていた。ただポロックの名前を出すと(中国語ではポにアクセントを置いて「ポロクー」と呼ぶように思った)、確かに自分もドリッピングの手法を使ってはいるが、あれはアメリカ人だから違う、とのことだった。

凄い存在を見つけてしまった気分だ。


作品集「狂草九潤」


藤のような書


「Buddist Monk」シリーズの絵柄に近い


ドリッピングによる作品


書をいただいた


陸川『南京!南京!』

2009-07-20 01:01:02 | 中国・台湾

南京大虐殺を描いた、陸川『南京!南京』(2009年)が、中国ではもうDVDになっている。上海市内の書店では、15元(200円程度)だった。日本ではまだ公開の予定がないようで、以前の『靖国』騒動も影響しているのだろう。

日本軍による民間人虐殺、強制的な慰安婦化、レイプなどが描かれている。話の大筋は報道されていた通りだが、映画としての出来とディテールの描写は予想を上回っていた。日本軍のひとりは、民間人を殺してしまったことに動揺しつつも次第に麻痺してゆき、慰安婦に恋をし、そして最後には贖罪のため自殺に到る。中国に行くたびに、どこかのテレビドラマに必ず「悪い日本人の軍人」が登場するのを見てしまうが、そういったものと比べれば、映画は遥かにその日本人を人間的で、繊細で、良心的な存在として描いている。

これが今年公開されたことの政治的な意味を分析してみる意見がある。プロパガンダ映画だと括る見方もある。ただ、史実としてはこのようなものだろうな、という感想だ。もちろん観る価値は大きい。

何か反応があるとすれば、「30万人」という数字が取り上げられるのだろう。数字だけの正確性を云々して、全体の信頼性に疑いがあるかのような見せ方をする方法であり、最近では、教科書検定に抗議して沖縄で開かれた集会の動員数について、同様のせこい批判がなされていたことが想起される。

第2次天安門事件でも、死者数の見解にずれがあった。これに関して、加々美光行『現代中国の黎明』(学陽書房、1990年)では、次のように述べている。

「このような論争に過度に偏することは、南京虐殺の死者の数について侃々諤々の議論をするのと同様に、事件の渦中に置かれた者の真の悲劇性をほとんど考慮しない、きわめて独善的な議論になりやすい。人の死は本来、数字や数値で測りうるものでないという当然の認識が、そこでは欠落している。
 実際にみずからの眼前で人が弾丸に倒れ、息絶えるのを目撃し、あるいはその介護にあたってその流血で我が身を赤くぬらした人にとっては、その種の惨状が引き起こされたという事実だけで胸張り裂ける怒りを禁じえない。だから、死者の数の多少によって事件の犯罪性がいささかも減じるわけではないのだ。
 事件の悲劇性を明らかにすることが目的であるならば、数字や数値はごく一部の真実しか伝えはしないということを心に銘じて、分析にあたるべきである。まして、どれほどの客観的な根拠があるかも判然としないような証拠をあげて死者の数値をことあげし、自分の分析の優秀性を誇るようなやり方は、事件を何らかの政治的意図によってフレーム・アップしようとするものであるか、あるいは事件を食い物にする研究者・ジャーナリストの低劣な意図にもとづくものでしかない。」

●参照
盧溝橋・中国人民抗日戦争記念館
平頂山事件とは何だったのか
加々美光行『現代中国の黎明』 天安門事件前後の胡耀邦、趙紫陽、鄧小平、劉暁波