ユルマズ・ギュネイのDVDボックスの1枚、『希望(Umut)』(1970年)を観る。ギュネイはトルコにおいてクルド人として生まれ、後年、反体制的な映画を撮っているとの咎で長い獄中生活を送ることになる。この作品はそういった状況に追い込まれる前ではあるが、やはりトルコで上映禁止となり、4年後に恩赦でトルコの人びとの目に触れる前の1971年、カンヌ映画祭で発表されている。
乗合馬車の御者として生計を立てる主人公のジャバル(ギュネイ自身が演じている)。古い馬車は営業を禁止されつつあり、タクシーにも客を奪われ、ジャバルはまったく稼ぐことができない。泣き叫び言うことを聞かない子どもたち、ヒステリックに荒れ狂う妻。宝くじを買い続けるも当たることはない。ある時、金持ちの自動車に馬をひき殺されてしまうが、警察は金持ちの味方である。借金が返せない、そんなジャバルの前に一攫千金の話を持ちかける男が現れる。すがる思いで、神託を下す怪しげな聖人とともに、川べりに宝が埋まっているはずだと掘りに出かける。何日掘っても何も出てこない穴の横で、ジャバルは発狂し、よろよろと回り続ける。
こんな救いようのない物語が、体制批判と捉えられたのは当然でもあっただろう。馬をひいた金持ちは真っ先に車の傷を調べ、ジャバルを罵る。ジャバルはぎらぎらとした眼で怒りをあらわにし、「人の馬を殺しておいて、車のペイントのことなど言いやがって・・・」と殴りかかっていく。警察でお前が一方的に悪いのだとけんもほろろに扱われ、その怒りは行き場を失う。また、新しい馬を買うためにさまざまな金持ちに借金を無心に行くが、プールサイドでの彼らの生活に何ら割り込むことができない。階級社会に向けられたギュネイの怒りなのである。
主張だけではなく、映画として巧妙で力を持った描写には目を引き付けられるものがある。貧しいジャバルのポケットをさらに狙うスリ。ジャバルはそれに気付き殴りつける。回転するカメラ、突如俯瞰して上から諍いを眺めるカメラ。そして最後のジャバルの暗黒舞踏には、唾を飲み込むことを忘れてしまう。白黒の撮影技術も一級品である。
マルセル・マルタンは、「メロドラマに陥る」こと、「巧い逃げ道の役に立つ、ある造形的なこぎれいさ」、「紋切り型で口あたりのよい見世物に変えてしまう表面的な美しさ」がすべて避けられていることを、イタリアン・ネオレアリスモとの比較において論じている(特にヴィットリオ・デ・シーカ『自転車泥棒』)。
(『ユルマズ・ギュネイ リアリズムの詩的飛躍』(欧日協会・ユーロスペース、1985年)所収)
●参照
○ユルマズ・ギュネイ(1) 『路』