李恢成『円の中の子供―北であれ南であれわが祖国Ⅱ―』(角川文庫、1974年)を読む。『沈黙と海―北であれ南であれわが祖国Ⅰ―』の続編という形だが、もともとは1冊の単行本であったものだ。おそらくは単行本の構成がそうだったのであろう、第2巻は作家論や軽いエッセイが多く、読みごたえはあまりない。
金石範と共通することだが、在日コリアンにとって<支配者の言語>たる日本語で書かざるを得ないことについて、思い悩み、思索している。興味深いことに、発音や語彙の難しさによるぎこちなさだけでない理由により、<観念が分裂する>ことに言及している。それこそが、自分の肉体化した母国語が<支配者の言語>によって否定される兆しに起因するのだとする。また、アイデンティティ崩壊なのか、それとも分裂を行きながらアイデンティティを再発見していくか、両方の可能性があるのではないか、とも考えている。
李がこれを書いてから40年弱、在日コリアンも三世、四世と進んできて、分裂としない分裂が出発点になっているのかもしれない。そして、長期的には、「在日朝鮮人文学」はいずれその運動を終える時期をもち、「帰化人文学」が生まれる可能性をも示唆している。しかし、その「長期」は残念なことにいまも「長期」であり続けている。
李自身が未成年時代には「岸本」姓を名乗っており、これはもともと、「李」を「木」+「子」とした抵抗であったという。また、「いつ自分の子供と生き別れになるかもしれないという想い」が日頃からあるのだという。<観念>を語ることを大袈裟だと言うことなどできないのだ。
作家論においては、金史良という朝鮮戦争で戦死した在日作家を繰り返し評価している。これは読まねばならない。
「日本語で書かれた彼の作品はまた同時に朝鮮人でなければ書けぬ濃密な文体を持っていた。日本語は彼のパレットに溶け合わされて出てくると不思議と朝鮮的な色彩を帯び出し、文体は生き生きとしている。また羨ましいほど文体に人間・金史良の息遣いが立ちこめ、生の声が録音されている感じである。」
●参照
○李恢成『沈黙と海―北であれ南であれわが祖国Ⅰ―』
○金石範『新編「在日」の思想』
○朴重鎬『にっぽん村のヨプチョン』
○井上光晴『他国の死』
○野村進『コリアン世界の旅』
○『世界』の「韓国併合100年」特集
○尹健次『思想体験の交錯』
○尹健次『思想体験の交錯』特集(2008年12月号)
○高崎宗司『検証 日朝検証』 猿芝居の防衛、政府の御用広報機関となったメディア
○菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業』、50年近く前のピースの空箱と色褪せた写真
○朴三石『海外コリアン』、カザフのコリアンに関するドキュメンタリー ラウレンティー・ソン『フルンゼ実験農場』『コレサラム』
○『済州島四・三事件 記憶と真実』、『悲劇の島チェジュ』