上巻からしばし時間をおいて、ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』(中)(河出文庫、原著1980年)を読む。
いくつものプラトー、そのいくつかに、電車の中で、文字通り引くほど、頬が笑いで痙攣するほど、仰天させられる。先生、何考えてるんですか。
<顔貌性>の議論。シニフィアンが顔を作るのではなくその逆であり、読む者のイメージとしては、逃走線がレーザー光線のように<ホワイト・ウォール>を形成する。いや、その<ホワイト・ウォール>は地層のようなものではなく、いつまでも逃走の可能性を秘めた<ホワイト・ウォール>そのものである。そして主体性の<ブラック・ホール>からの脱出。このコンテクストに恋愛を絡める下りで引きながらも感動してしまう。
<なる>ことの議論。男性と女性、人間と動物などという二元論を突破するために、ここでは、「あらゆる生成変化は分子状」だと喝破する。やはり視覚的なイメージがあらわれる。具体的な姿、実は<ブラック・ホール>の底に淀んだ分子たちの集合体が、マッスとしてではなく、分子レベルで他の領域へと遷移していき、それらが逃走線を描くイメージが。ここでも、分子状の生成変化が<性愛>に結び付けられ、また仰天する。
「性愛とは数限りない性を産み出すことであり、そのような性はいずれも制御不可能な生成変化となる。性愛は、男性をとらえる女性への生成変化と、人間一般をとらえる動物への生成変化を経由する。つまり微粒子の放出である。」
性愛は置いておいても、よく私たちが、受苦の者たちと化した場合の想像力を問うとき、この分子状の生成変化を意味しているのではないか?そして、かつて丸山眞男が<であること>と<すること>を議論したことにあわせて、<なること>を積極的に加えることが重要なのではないか。
議論は生命のありようにまで進む。それはあまり明快にも感じられなかったが、生成変化を、<脱地層化の剰余価値>を生命の場として位置付けていることだ。これが大団円であればそれなりに感動もするが、さて、このあとどのように滅茶苦茶な議論がなされるのか。
彼らによれば脱領土化、逃走線の絶えざる形成に、クレーやカンディンスキーの絵画、また音楽が、リズムが、関連付けられる。ドゥルーズを読むことは音楽のノリに付き合うことだと感じていた自分には、奇妙に共感できる主張であった。ドゥルーズを読むことは音楽を聴くこと、ではなく、脱領土化のシミュレーションに付き合っていること。
「硬質な切片は、社会的な規定を受けとり、前もって定められ、国家によって超コード化されると思われがちだ。逆に柔軟な切片性の線は、空想や幻想など、内面の営みとされる傾向にあるようだ、そして逃走線は、あくまでも個人の問題で、各個人がそれぞれに逃走し、「責任」を、世界を逃れ、砂漠や芸術に逃避することだと考えられているようだ。勘違いもはなはだしい。柔軟な切片性は空想とはおよそ無関係だし、ミクロ政治学は、その広がりと現実性において、もう一つの政治学に劣るものではないのである、大規模な政治学がモル状の集合をあやつるには、助力にもなれば妨害にもなるミクロの貫入やミクロの浸透を欠くことができない。それに、集合が大きくなればなるほど、集合に巻き込まれた審級の分子化が促進されるのである。また、逃走線とは決して世界を逃れるものではない。むしろ水道管を破裂させるようにして、世界に逃走を強いるところにこそ、逃走線の本領があるのだ。」
●参照
○ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(上)
○ジル・ドゥルーズ『フーコー』
○フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』