ようやく年末の休みに入り、本屋を彷徨いたくなって丸の内の丸善に出かけて何冊か買い込み、ご飯を食べてくたびれて帰って、ちょっと本を読んだら厭きて、気が向いて、鈴木志郎康『日没の印象』(1975年)を観る。
>> 鈴木志郎康『日没の印象』
この映像作家は当時40歳、ふと古い16mmカメラのシネコダック16を買う。25mmレンズが1本だけついている。そして100フィート巻のフィルムを入れると高揚してしまい、周りの私的な風景だけを撮り始める(大辻清司も登場する)。そう、まるでボレックスを入手したジョナス・メカスであり、散文的なタイトルと番号を時々挿入するスタイルは明らかにメカスの影響を受けている。
メカスとの大きな違いは、気負って、照れながら語る方法論が本人の独白の大半を占める点だ。だからと言って本当の技術論ではないのであって、「空間論」と銘打っておきながらその論はなく、また、「ワイドコンバーターを付けてみたが何ということはなかった」などの印象にとどまっている。外と中に向けて発信する内向きの視線であり、のちに円周魚眼レンズによって自室内を撮った丸い作品群、『眉宇の半球』にも通じるものがある(買っておけばよかった!)。
しかしその揺らぎが悪くないのだ。映像に挿入された自筆では、焦点の定まらない映像を、「とまどい」と表現している。吉増剛造が8ミリ映画について、「脈動を感じます。それはたぶん8ミリのもっているにごり、にじみから来るのでしょう」(『8ミリ映画制作マニュアル2001』、ムエン通信)と表現した。それらは小型映画に向けられた愛情に他ならない。