NHKの「新日曜美術館」で、比嘉康雄の特集を組んでいた。報道写真家を志しながらも、カメラを真後に向け、事件に象徴される沖縄ではなく、ひとりひとりの顔に体現される沖縄を撮るようになった写真家の移り変わりを追っていて興味深かった。そして比嘉康雄は、久高島の祭祀へと向かう。そのとき、写真家の中で生まれた言葉は、「際に立ち会う」であったという。
沖縄は常に<際>(きわ、マージナルな場)にあったし、現在もそうあり続けている。<際>に立つことは世界を見ることだ、それは真実だと思う。かつて、ヤマトゥから沖縄という<際>へと身を寄せた東松照明はこんなふうに書いた。
「いま、問題となっているのは、国益のためとか社会のためといったまやかしの使命感だ。率直な表現として自分のためと答える人は多い。自慰的だけどいちおううなずける。が、そこから先には一歩も出られない。ぼくは、国益のためでも自分のためでもないルポルタージュについて考える。 被写体のための写真。沖縄のために沖縄へ行く。この、被写体のためのルポルタージュが成れば、ぼくの仮説<ルポルタージュは有効である>は、検証されたことになる。波照間のため、ぼくにできることは何か。沖縄のため、ぼくにできることは何か。」(「南島ハテルマ」、『カメラ毎日』1972年4月号所収)
『時の島々』の表紙にもなっている写真。キヤノン・ぺリックスに28mm、トライXで撮られたもの。
東松照明にとって、<際>への移動こそがアイデンティティであった。それでは、もとより沖縄という<際>にあって沖縄を写す写真家とは何だろう。比嘉康雄は、沖縄のなかでもさらなる際、久高島に視線を向けた。<際>から<際>への移動があった。そうではなく、いまの政治と社会にあって沖縄が<際>であり、移動がないと言うことはできないが、それでも、あからさまな形ではないということである。この内部での跳躍を、勇気であり、かつ、表現であると見るべきか。
豊里友行『沖縄1999-2010 ―戦世・普天間・辺野古―』(沖縄書房、2010年)を凝視していると、そのような思いが去来する。摩文仁、渡嘉敷島、辺野古、勝連、北谷、普天間、泡瀬、嘉手納、コザ、象の檻・・・。ここには決定的な場所も時間もある。象徴性も事件性もあり、モノクロ写真のクオリティは高い。飲んだくれる米兵や彼らにサービスを提供する女性たちに迫った写真など素晴らしいと思う。そして840円という低価格は過激であり、廉価で売られた土門拳『筑豊のこどもたち』のことを思い出す。
その一方で、あまりにも多くの情報が肩に圧し掛かってきて、写真というアートとしてどう捉えるべきなのかとも思ってしまう。
以前、飲み会で北井一夫さんにこの写真のことを問うてみる機会があった。そのときのコメントを書くのはルール違反だが、間接的に豊里さんにぶつけてみる意味で、私信ではなく、ここにあえて書いてみる。これを私はどう受け止めるべきなのか、それも判断しかねている。
曰く、
沖縄の政治家や学者などのコラムがあるのには違和感がある。
政治に依存しすぎてはならない、政治は力なのだから。
沖縄という特権に嵌ってはならない。
表現者は、何かに依存せず、孤独でなければならない。
『東京ベクトル』の方向性は良かった。
石川真生のあり方を見て考えてみてはどうか。
※公式の場でもなく、発言そのものでもないため、文責は当方にあります
●沖縄の写真
○比嘉豊光『光るナナムイの神々』『骨の戦世』
○仲里効『フォトネシア』
○『LP』の「写真家 平敷兼七 追悼」特集
○「岡本太郎・東松照明 まなざしの向こう側」(沖縄県立博物館・美術館)
○平敷兼七、東松照明+比嘉康雄、大友真志
○沖縄・プリズム1872-2008
○東松照明『長崎曼荼羅』
○東松照明『南島ハテルマ』
○石川真生『Laugh it off !』、山本英夫『沖縄・辺野古”この海と生きる”』
○豊里友行『彫刻家 金城実の世界』、『ちゃーすが!? 沖縄』
●久高島
○久高島の映像(1) 1966年のイザイホー
○久高島の映像(2) 1978年のイザイホー
○久高島の映像(3) 現在の姿『久高オデッセイ』
○久高島の映像(4) 『豚の報い』
○久高島の猫小(マヤーグヮ)
○久高島で記録された嘉手苅林昌『沖縄の魂の行方』、イザイホーを利用した池澤夏樹『眠る女』、八重山で演奏された齋藤徹『パナリ』