Sightsong

自縄自縛日記

セシル・テイラーのブラックセイントとソウルノートの5枚組ボックスセット

2011-01-02 22:45:16 | アヴァンギャルド・ジャズ

ブラックセイントやソウルノートからLP・CDを出しているジャズマンの安価なボックスセットが最近いくつか出ていて、ヘンリー・スレッギルのものは(リマスターの文句に動揺したが)全部持っているのでパス、他にチャーリー・ヘイデンのものなんか欲しいと思っている。まずはセシル・テイラーの5枚組を入手した。どれも聴いたことがなかったのでこれは嬉しい。今日、この5枚を日がな聴いていた。

セシル・テイラーは強靭、超人である。構造にもセグメントにも恐ろしいほどの力が漲っている。どこかでセシル・テイラーがキース・ジャレットのことを坊や呼ばわりしていた記憶があるが、彼の前には誰でも坊やである。

ピアノソロは『Olim』(1986年)、ジミー・ライオンズの魂に捧げられている。最初に長尺のソロがあり、耳が釘付けになる。

マックス・ローチ(ドラムス)とのデュオ2枚組、『Historic Concert』(1979年)は、両者の個性がかち合っている。マックス・ローチも構造主義的といえばそう言えなくもない。2枚目にはふたりのインタヴューが収録されており、マックスはセシルのことを「Strong Force」、セシルはマックスのことを「elastic」などと評していて、確かにその通りなのだった。マックスの音がさまざまなパーカッションにより多彩になってきた後半、セシルは抒情的に攻める。

『Winged Serpent』(1984年)はメンバーが豪華で、エンリコ・ラヴァ+トマス・スタンコ(トランペット)、ジミー・ライオンズ(アルトサックス)、フランク・ライト+ジョン・チカイ(テナーサックス)、ギュンター・ハンペル(バリトンサックス、バスクラリネット)、ウィリアム・パーカー(ベース)など11人編成。4曲それぞれコンパクトにまとまってはいるが、チカイの詰まったような音やライトのでろでろと垂れ流す音など聴きどころが多い。

そして最も印象的だったのが、『Olu Iwa』(1986年)。これも『Olim』同様、86年に亡くなったジミー・ライオンズの記憶に捧げられている。1曲目はペーター・ブロッツマン(テナーサックス、タロガド)、フランク・ライト(テナーサックス)、アール・マッキンタイア(トロンボーン)、サーマン・バーカー(マリンバ)、ウィリアム・パーカー(ベース)、スティーヴ・マッコール(ドラムス)という凄い面々。最初はバーカーのマリンバが目立つ大人しめの演奏だが、次第に皆、構造的かつ野獣的に暴れはじめる。その中でのピアノとパーカーのベースの存在感が際立ちまくっている。2曲目はバーカー+ピアノトリオであり、シンプルな編成とは思えないカタルシスが得られる。

セシル・テイラーはいつだって素晴らしい。


セシル・テイラーとトニー・オクスレー、アントワープ(2004年) Leica M3, Summitar 50mm/f2.0, スペリア1600

●参照
イマジン・ザ・サウンド(セシル・テイラーの映像)

徐京植『ディアスポラ紀行』

2011-01-02 18:42:29 | 韓国・朝鮮

徐京植『ディアスポラ紀行 ―追放された者のまなざし―』(岩波新書、2005年)を読む。

著者は在日コリアン2世である。拠って立つ母国や母語、共同体、文化を故郷とするならば、それらからマイノリティの立場に追いやられ、石もて追われてしまうディアスポラたちを、その眼から視て思索した書である。それは、在日コリアンのみならず、ナチの絶滅収容所を生き延びたプリーモ・レーヴィであり、ナチから逃れたシュテファン・ツヴァイクであり、カール・マルクスであり、光州を生き延びた者たちであり、ピノチェト圧政下のチリから逃れた者たちであり、その他数えきれないほどの者たちであった。

「彼らは、新たに流れ着いた共同体で常にマイノリティの地位におかれ、ほとんどの場合、知識や教養を身につける機会からも遠ざけられている。そうした困難を乗り越えて言葉を発することができたとしても、それを解釈し消費する権力は常にマジョリティが握っている。その訴えがマジョリティにとって心地よいものであれば相手にされるが、そうでない場合には冷然と黙殺されるのだ。」

アイデンティティは常に受苦とともに揺れ動き、著者ですら、ディアスポラであった故に光州に居なかった事実をもって、「つねに変化の「外」に身を置き続けていたのではないか」、と自問している。

レーヴィはイスラエルという国家の存在を必要としつつも、その後強まった攻撃的なナショナリズムを憂慮し、ディアスポラのユダヤ人にはそれに「抵抗する責任」があり、かつ「寛容思想の系統」を守るべきだと主張している。だが、ナショナリズムに関してそのような声は圧倒的に小さい。70年代、軍政下の韓国でこんな詩を書いた金芝河さえ、その後、ナショナリズムの陥穽にはまってしまったという。

「夜明けの路地裏で
おまえの名を書く 民主主義よ
ぼくの頭はおまえを忘れて久しい
ぼくの頭がおまえを忘れて あまりに あまりに久しい
ただひと筋の
灼けつく胸の渇きの記憶が
おまえの名をそっと書かせる 民主主義よ」
(金芝河『灼けつく渇きで』より)

著者は、ベネディクト・アンダーソンを引用し、ナショナリズムに関してこう言う。「死者への弔い」が、たえず「他者」を想像し、それとの差異を強調し、それを排除しながら、「鬼気せまる国民的想像力」によって、近代のナショナリズムを強固にしているのだ、と。この、かけがえのない「死」とナショナリズムとの関係には動揺させられるものがある。

「自分はたまたま生まれ、たまたま死ぬのだ、ひとりで生き、ひとりで死ぬ、死んだあとは無だ―――そういう考えに立つことができるかどうかに、ナショナリズムへの眩暈から立ち直ることができるかどうかは、かかっている。」

レーヴィと同様にアウシュビッツに送られたジャン・アメリーは、ユダヤ人であるという運命を引き受け、同時にその運命に反抗を企てることを自分に課した。そのために必要なことは「殴り返す」ことだった。自らの尊厳を主張するために「殴り返す」。

ドゥルーズ/ガタリのいう分子状の生成変化、すなわち<他者になる>ことは、いかに可能だろうか。<私>は、<私>に押しつけられた不条理な運命を「殴り返す」ことができるだろうか、べきだろうか。<他者>に押しつけられた運命をいかに「殴り返す」ことができるだろうか、べきだろうか。そんなことを考える。

●参照
T・K生『韓国からの通信』、川本博康『今こそ自由を!金大中氏らを救おう』(光州事件の映像)
四方田犬彦『ソウルの風景』(光州事件)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(中)


セディク・バルマク『アフガン零年/OSAMA』

2011-01-02 11:19:16 | 中東・アフリカ

昨年末にNHKで再放送された、セディク・バルマク『アフガン零年/OSAMA』(2003年)を観る。

米国介入によるカルザイ政権成立後であり、その状況が描かれているのかと思いきや、ここにあるのはタリバン政権時の姿である。

女性は外に出てはならない。顔や足を見せてはならない。貧しくてもそのことを口に出してはならない。一方的に結婚相手を指定され、幽閉される。婚礼行事も厳しくタリバンに監視される。そして見えないところでは、タリバンを呪う唄を呟いている。

その一方では、男や少年は宗教教育により囲い込む。貧しい少女は、働くために髪を切り、外に出されてしまう。しかしタリバンに捕まり、やがて、女であることが発覚する。裁判では死罪ではなく大目に見られ、老人の妻として連れて行かれる。

告発の、記憶のためのフィルムとしてインパクトが大きいが、映画としてはさほど見るべき点はない。

映画に寄せたコメントとしてこんなものがある。「結末は、プツンとブチ切れるように唐突で、「タリバンがいなくなったのだから、もう少し明るい終わり方をすればいいのに」と、やりきれない思いが苦く長く残る。」(高野孟)

しかし今もタリバンはいなくなってはいない。「悪を滅ぼす」といった考え方では何も解決していない。いまだ、「プツンとブチ切れるように唐突」な結末を持つ映画が現在形であるということか。折角のNHK放送であるから、コメンテーターによる解説が必要だった。

●参照 アフガニスタン
モフセン・マフマルバフ『カンダハール』
モフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』
中東の今と日本 私たちに何ができるか(2010/11/23)
ソ連のアフガニスタン侵攻 30年の後(2009/6/6)
『復興資金はどこに消えた』 アフガンの闇
ピーター・ブルック『注目すべき人々との出会い』(アフガンロケ)
『アフガン零年』公式サイト


梁石日『魂の流れゆく果て』

2011-01-02 00:43:16 | 韓国・朝鮮

梁石日『魂の流れゆく果て』(光文社文庫、原著2001年)を読む。書店でふと手に取ってみると、金時鐘金石範のことが書かれていたからだ。梁石日の作品は何かひとつ読んだことがある程度だ。

凄まじい半生である。大阪での事業失敗と東北放浪を経て、新宿中央公園に辿り着く。数日間何も喰えず、残飯に手を出しかけたとき、風に飛ばされてきたスポーツ新聞にタクシードライバー募集の文字を見る。そして10年間、タクシーを運転することになる。

それにしても赤裸々な文章だ。そんな中でも、屋台を引く金石範を含め、ひととの濃密な付き合いはあまりにも人間的で、惹かれないわけにはいかない。そうか、『血と骨』の舞台は鶴橋なのか。


鶴橋(2010年7月)

●参照
金石範『新編「在日」の思想』
『済州島四・三事件 記憶と真実』、『悲劇の島チェジュ』(大阪市生野区)
林海象『大阪ラブ&ソウル』(鶴橋)
鶴橋でホルモン