日本人の読者として、頁の向こうから罵られるのではないかと怯えつつ、知念ウシ『ウシがゆく 植民地主義を探検し、私をさがす旅』(沖縄タイムス社、2010年)を読む。ところでオビが邪魔で、折角南北を逆転させた日本列島が隠れてしまっている。
偽善と欺瞞で取り繕っていないで早くヤマトゥで米軍基地を引き取れ、とする著者の主張は勿論正論であり、それよりも、正論だねという言葉で済ますことが問題視されているのだろうね。常に沖縄人として発信し続けた軌跡にあることばは、読んでいてあちこちに引っかかる。ことばは言い換えやレトリックではない。そのことば自体を受けとめるためにこの本がある。
いくつか擦音がした箇所を拾ってみる。(この時点でことばを変質させているのだけど)
○植民地には植民者だけでなく、協力者、共犯者が必要である。
○基地がある、ではなく、基地がない、という目で地域を視る。
○日本人にとっての癒しが沖縄にあって、逆に、沖縄人にとっての癒しは日本への旅にはない。
○沖縄人の選択に任せられない、と、日本人は思ってはいないか。
○植民地の人々は、むき出しの暴力ではなく、知識体系によって支配されている。従って、「有名な専門家」の知識を信用してはならない。
○抵抗する自分の居場所を自分自身の中で確保しなければならない。そうしないと、感覚が麻痺し、不当な扱いを横行させてしまう。
○沖縄人たちは、今、確実に戦争の予感をとらえている。振興策は、戦争までの間、遊んで時間をつぶせというカネだ。
○沖縄を「愛している」ではなく、「リスペクトしている」として捉えなおさなければならない。愛は時に暴力である。