Sightsong

自縄自縛日記

『ノルウェイの森』

2011-01-23 22:12:16 | アート・映画

どうにも我慢できなくなって、トラン・アン・ユン『ノルウェイの森』(2010年)を観た。絶賛の声も罵倒の声もやたらに大きい作品である。

ワタナベ君も直子も緑も風である。風が擦音を立てながら、ぐるぐると回り続ける。風は擦音にとどまらず、何かに引っかかり、騒音をたてはじめる。村上春樹の小説を棒読みするようなセリフも、擦音であり、騒音であるように思える。そして死と喪失が、こちらの中にシコリのように残される。

直子が精神を傷めて入る施設の周囲の濡れた草草は素晴らしく映画的だ。また、直子の死のあとにワタナベ君が号泣する海辺のシーンなどは、大島渚『儀式』におけるテルミチ君の死のシーンに匹敵するほど厳粛である。

この映画は、将来、怪作と呼ばれるか、傑作と呼ばれるか。自分は絶賛する。

●参照
『風の歌を聴け』の小説と映画


川で遊ぶ、川を守る~日本と韓国の水辺環境

2011-01-23 21:48:24 | 環境・自然

ラムサール・ネットワーク日本が主催のセミナー「川で遊ぶ、川を守る~日本と韓国の水辺環境」を聴いてきた(2011/1/18、丸の内さえずり館)。

第1部は写真家・村山嘉昭氏による日本の川の写真上映とトーク。川で遊ぶ子供たち、通称「川ガキ」の姿が愉しい。ダムが中止された川辺川(熊本県)。山がしっかりしているために川底の苔に土がたまらず、アユが旨いという安田川(高知県)。「川の学校」を続けている吉野川(徳島県)。釣り人と泳ぐ子供たちが共存する長良川の郡上(岐阜県)。それぞれ魅力的なところのようで、すぐにでも行きたくなってくる。

写真家によるメッセージは、地域の力ということだった。子供たちに自然に入らせ、地域がそれを見守る。そうすればリスクゼロという極端に走りがちな学校や役所も理解を示すのだという。自分も子どもの頃は川で泳いだり、サワガニやザリガニやウグイを追いかけていたりしたなあ、なんて思いだしたりして。

第2部は、菅波完氏(ラムサールネットワーク日本)による、韓国四大河川の環境破壊に関する報告。ハンガン、クンガン、ナクトンガン、ヨンサンガンの四大河川では、同時に、ダム建設(16箇所)や河岸の人工化が進んでいる。それによると、李明博政権の言う治水効果も利水効果もまったくウソであり、李大統領が選挙時に謳っていた「大運河構想」が姿を変えたものであることがわかる。


四大河川開発事業(左)と大運河構想(右)

この事業は、日本では考えられないほど急速かつ強権的に進められており、止めることができず、今後、環境・財政の面から問題になった後、如何に修復していくかが課題だという。ほとんど知らない内容であっただけに驚愕した。

●参照
日韓NGO湿地フォーラム
やんばる奥間川


只木良也『新版・森と人間の文化史』

2011-01-23 20:46:04 | 環境・自然

只木良也『新版・森と人間の文化史』(NHKブックス、2010年)を読む。愚かな「環境問題のウソ本」が幅をきかせているいま、そんな本に無駄なオカネを払うくらいなら、このような良書をじっくり読むべきである。何しろ、リベラルな人々でさえも、すぐに水準の低い環境陰謀論を信じてしまっている状況であり、これは知的怠惰・知的後退に他ならないからだ。

何といっても、マツについて語った「マツ林盛衰記」が面白い。人間が森林の収奪を繰り返し、土地がやせ、そこに耐性の強いマツが進出し、里山のマツ林が生まれてきた。『魏志倭人伝』にはマツは登場せず、『記紀』には少し現れ、『万葉集』ではポピュラーな樹木として歌われた。「白砂青松」とは、そのような環境の風景に与えられた名前であったのだ。

いまのマツ枯れは、化石燃料の進出によって落葉や薪炭材の収奪が減り、土壌が肥沃になって、マツが再び追い出されている過程に過ぎないのだという。そしてマツタケの不作も、肥沃な土地ではマツタケ菌が他の菌に負けてしまうからだという。自然破壊としてのみ視られるこれらの現象も、見方を変えてみれば、人と森林との関わりの歴史に位置づけられてくる。

その意味では、本来の健全な森林環境においてマツが育つものではないということになる。著者はこの安定的な状態を「極相」と表現している。本来その土地にあるべき樹木を指す「潜在自然植生」と同様の概念だろう(宮脇昭『木を植えよ』一志治夫『魂の森を行け』)。関東以西の「潜在自然植生」は常緑広葉樹(照葉樹)、東北・北海道は落葉広葉樹または針葉樹など、魅力的な見方である。

木曽谷のヒノキが危機的な状況にあるという。その理由は、間伐などの森林管理がいき届かず、より暗いところに強いアスナロが力をつけてきていることにある。「極相」や「潜在自然植生」とは異なり、人が丁寧に育ててきた二次林の危機ということになる。アスナロは漢字では「翌檜」、つまり「明日はヒノキになろう」の木であり、葉っぱの形はうろこ状でよく似ている。私の愛用する『葉で見わける樹木』(林将之)でも、その違いがわかりやすく示されている。しかしその類型的な見方では、ヒノキ林の危機にまで想いを馳せることが難しい。

そして道端や公園で見かける木々についても、名前のみ覚えているにとどまっていたことを思い知らされる。例えばカイヅカイブキ、キョウチクトウ、マテバシイなどは、都市の悪い環境でも育つ「公害に強い木」であるという。しかし、著者はこのことに警告を発する。

「むしろ積極的に弱い木を計画的に市街地内に配置し、環境の見張り役、緑の警報器(警報木?)として役立たせては、と思うのである。弱い木が枯れたら植え直す、そして枯れた理由を人々に思い知らせる、といった啓蒙的活動も含めて。」

著者は林道必要論者のようであり、林業と森林管理に必要だとする。私の頭にある林道は、無駄な公共事業の林道や林網、それによる生態系の分断と森林の劣化、土壌の浸食の象徴のようなものだ。一辺倒な考えではいけないんだろうな、と思った次第。

●参照
そこにいるべき樹木(宮脇昭の著作)
東京の樹木
小田ひで次『ミヨリの森』3部作
荒俣宏・安井仁『木精狩り』
森林=炭素の蓄積、伐採=?
『けーし風』2008.3 米兵の存在、環境破壊(やんばるの林道についての報告)
堀之内貝塚の林、カブトムシ
上田信『森と緑の中国史』
沖縄の地学の本と自然の本
熱帯林の映像(着生植物やマングローブなど)


吉本隆明『南島論』

2011-01-23 09:25:18 | 沖縄

吉本隆明『南島論』(猫々堂、1988-93年)を読む。主に『文藝』において1989年に連載された未完の同論が収録されている。吉本の沖縄論は『共同幻想論』の中で久高島の母系社会を論じたもの、それから吉田純写真集『沖縄・久高島 イザイホー』の解説(古本屋で見つけて躊躇しているうちに無くなった)のみ記憶していたが、こんなものもあったのだ。なお後者も収録されている。

言語の特徴や遺伝子のひとつの側面をのみつまんできて(専門でもないくせに)、沖縄と北海道のアイヌは違うのだとする主張、自然や都市の段階論をアフリカ的だとかアジア的だとかするセンスにはアホらしいを通りこして呆れる他はないが、ざっくりとおかしな串刺しを行うのが吉本隆明、それは別に気にならない。

『南島論』において興味深いのは、久高島の琉球開闢神話と琉球の民話的な伝承(南島神話)とを比較し、前者を権力と結び付けていることだ。すなわち、アマミキヨらを始祖とする神話は天からの視線を持ち、あまりにも抽象的であり、琉球王権を支えるためのものだとする。議論は当然ながら、日本の権力にとって同じ意味を持つ『記紀』神話と重ね合わされていく。

「・・・南島神話(民話)ははじめに、この宇宙はどうなっていたか、そこから天地がどう分かれてきたかといった宇宙や世界の生成に類する物語を欠いている。それは、南島神話が村落共同体やその連合体のレベルで流布された民話の世界を離脱して、国家をつくる方向をもたなかったからだとおもえる。国家を形成しない共同体は天地開闢や創世の物語をもつ必然はないといってよい。必然ならそんな物語をもった部族国家の宇宙観や世界観を受容すればよかったからだ。村落共同体が連合してはじめて部族国家を形成したいというモチーフは、ちがった次元へ跳躍したい願望を意味している。そこでは眼にみえる共同体の習俗とはちがった拡がりの彼方に眼にみえない共同と連合の契機をつくりあげるモチーフが萌している。南島神話ではそれがなかった。たぶん征服王朝の進出よりほかに国家をつくる必然がなかったのだ。」

それはそれとして、神話にもあるような兄弟姉妹関係が夫婦関係よりも強かったとする構造が、沖縄の社会構造を考える際に大きな指標となるという指摘は、ちょっとよくわからない。

吉本の南島論は、国家を越え、天皇制を無化するヴィジョンを持つものであった。それは現実的・政治的なものでも、ましてや暴力革命を論じるものではなく、神話や民話を掘り下げていって共通項を求め、基層に至ったところで国家と象徴天皇制の無化へと進もうとするものであった。その意味では、沖縄を特権化した視線は基層への掘り下げにとって邪魔なものとなりうる。これも刺激的ではあるが・・・、それでは以下のような共通項の探りだしはどう捉えるべきか。

「つまり神聖にして侵すべからずという憲法の規定があって、戦争中の日本の天皇はそのとおりに考えられていたわけです。そしてそのとおりに振る舞ったわけです。神聖にして侵すべからずは、たぶん南島におけるキコエオオキミのあり方が神格化されていて、神様の意向を受託する神聖なる女性だというかんがえが歴史的にあって、その通り尊重されていたとすれば、天皇制とおなじ意味をもっていたとおもいます。そこから受けた被害もまた、おなじことがあるはずです。」

●参照
吉本隆明のざっくり感(『賢治文学におけるユートピア・「死霊」について』)
伊波普猷『古琉球』
村井紀『南島イデオロギーの発生』
岡本恵徳『「ヤポネシア論」の輪郭 島尾敏雄のまなざし』
屋嘉比収『<近代沖縄>の知識人 島袋全発の軌跡』
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
島尾ミホさんの「アンマー」
与那原恵『まれびとたちの沖縄』
伊波普猷の『琉球人種論』、イザイホー
齋藤徹「オンバク・ヒタム」(黒潮)
由井晶子「今につながる沖縄民衆の歴史意識―名護市長選挙が示した沖縄の民意」(琉球支配に関する研究の経緯)

●久高島
久高島の映像(1) 1966年のイザイホー
久高島の映像(2) 1978年のイザイホー
久高島の映像(3) 現在の姿『久高オデッセイ』
久高島の映像(4) 『豚の報い』
久高島の猫小(マヤーグヮ)
久高島で記録された嘉手苅林昌『沖縄の魂の行方』、イザイホーを利用した池澤夏樹『眠る女』、八重山で演奏された齋藤徹『パナリ』