只木良也『新版・森と人間の文化史』(NHKブックス、2010年)を読む。愚かな「環境問題のウソ本」が幅をきかせているいま、そんな本に無駄なオカネを払うくらいなら、このような良書をじっくり読むべきである。何しろ、リベラルな人々でさえも、すぐに水準の低い環境陰謀論を信じてしまっている状況であり、これは知的怠惰・知的後退に他ならないからだ。
何といっても、マツについて語った「マツ林盛衰記」が面白い。人間が森林の収奪を繰り返し、土地がやせ、そこに耐性の強いマツが進出し、里山のマツ林が生まれてきた。『魏志倭人伝』にはマツは登場せず、『記紀』には少し現れ、『万葉集』ではポピュラーな樹木として歌われた。「白砂青松」とは、そのような環境の風景に与えられた名前であったのだ。
いまのマツ枯れは、化石燃料の進出によって落葉や薪炭材の収奪が減り、土壌が肥沃になって、マツが再び追い出されている過程に過ぎないのだという。そしてマツタケの不作も、肥沃な土地ではマツタケ菌が他の菌に負けてしまうからだという。自然破壊としてのみ視られるこれらの現象も、見方を変えてみれば、人と森林との関わりの歴史に位置づけられてくる。
その意味では、本来の健全な森林環境においてマツが育つものではないということになる。著者はこの安定的な状態を「極相」と表現している。本来その土地にあるべき樹木を指す「潜在自然植生」と同様の概念だろう(宮脇昭『木を植えよ』、一志治夫『魂の森を行け』)。関東以西の「潜在自然植生」は常緑広葉樹(照葉樹)、東北・北海道は落葉広葉樹または針葉樹など、魅力的な見方である。
木曽谷のヒノキが危機的な状況にあるという。その理由は、間伐などの森林管理がいき届かず、より暗いところに強いアスナロが力をつけてきていることにある。「極相」や「潜在自然植生」とは異なり、人が丁寧に育ててきた二次林の危機ということになる。アスナロは漢字では「翌檜」、つまり「明日はヒノキになろう」の木であり、葉っぱの形はうろこ状でよく似ている。私の愛用する『葉で見わける樹木』(林将之)でも、その違いがわかりやすく示されている。しかしその類型的な見方では、ヒノキ林の危機にまで想いを馳せることが難しい。
そして道端や公園で見かける木々についても、名前のみ覚えているにとどまっていたことを思い知らされる。例えばカイヅカイブキ、キョウチクトウ、マテバシイなどは、都市の悪い環境でも育つ「公害に強い木」であるという。しかし、著者はこのことに警告を発する。
「むしろ積極的に弱い木を計画的に市街地内に配置し、環境の見張り役、緑の警報器(警報木?)として役立たせては、と思うのである。弱い木が枯れたら植え直す、そして枯れた理由を人々に思い知らせる、といった啓蒙的活動も含めて。」
著者は林道必要論者のようであり、林業と森林管理に必要だとする。私の頭にある林道は、無駄な公共事業の林道や林網、それによる生態系の分断と森林の劣化、土壌の浸食の象徴のようなものだ。一辺倒な考えではいけないんだろうな、と思った次第。
●参照
○そこにいるべき樹木(宮脇昭の著作)
○東京の樹木
○小田ひで次『ミヨリの森』3部作
○荒俣宏・安井仁『木精狩り』
○森林=炭素の蓄積、伐採=?
○『けーし風』2008.3 米兵の存在、環境破壊(やんばるの林道についての報告)
○堀之内貝塚の林、カブトムシ
○上田信『森と緑の中国史』
○沖縄の地学の本と自然の本
○熱帯林の映像(着生植物やマングローブなど)