Sightsong

自縄自縛日記

山口百恵『曼珠沙華』、『ア・フェイス・イン・ア・ヴィジョン』

2011-01-15 23:39:04 | ポップス

NHKの『SONGS』で2週続けて放送された山口百恵の特集を観て以来、やっぱり百恵は凄い歌手だったと思っている。何しろ百恵が21歳で引退したとき私は10歳にもなっていなかったから、ヒット曲を覚えてはいても、それ以上の存在ではなかった。今観ると、あの眼と肝が据わった存在感と歌唱力であの年齢とはあり得ない。

そんなわけで、百恵のLPをひと山いくらで入手した(でも、忙しくてあまり聴けていない)。篠山紀信による百恵の写真展も最近都内で開かれていて随分観に行きたかったのだが、結局行けずじまい。その代わりに、篠山紀信の写真がジャケットを飾った作品、『曼珠沙華』(1978年)と『ア・フェイス・イン・ア・ヴィジョン』(1979年)を繰り返し聴く。

ハイキーなジャケット写真が目を引く『曼珠沙華』には、「曼珠沙華」と「いい日旅立ち」が収められている。何と言っても谷村新司による「いい日旅立ち」、ヘンな歌詞だが名曲である。どうしてもJRのコマーシャルを思い出してしまうぞ。阿木・宇崎コンビによる曲は「曼珠沙華」を含め3曲あるが、それよりは他のアンニュイな曲のほうが好みである。

『ア・フェイス・イン・ア・ヴィジョン』は、篠山紀信の写真をフィーチャーしたNHK特集の音楽であったようで、LPの中にも写真集が入っている。これまで篠山写真に感じたことなど一度もないが、これは素晴らしい。商業の怪物を撮ると篠山は天才だ。

こっちで目立つ曲は逆に阿木・宇崎コンビの「美・サイレント」「夜へ・・・」だ。それにしても、戦略とは言え、過激な歌詞を歌わせたものだね。

Be silent, be silent, be silent, be silent
あなたの○○○○が欲しいのです
燃えてる××××が好きだから
(※伏字の部分は歌わない)

「夜へ・・・」は、渚ようこ『あなたにあげる歌謡曲 其の一』においてカバーしている曲だった(>> リンク)。渚ようこも悪くないが、こう聴いてみると、20歳の百恵が断然格上である。

ええい、篠山展に足を運べなかったことがつくづく悔やまれる。


サイラス・チェスナット『Earth Stories』、最近の演奏

2011-01-15 18:29:55 | アヴァンギャルド・ジャズ

90年代の前半にサイラス・チェスナットが割と騒がれていた。1996年ころに六本木のバードランドだったかにトリオ演奏を聴きに行った。ラグタイムもストライドピアノもできそうなテクニシャン、ただどう聴いても先祖返りとしか思われず、その枠内でいかにも楽しそうに盛り上げるのが嫌になってきて、ライヴの途中で帰ってしまった。きっと虫の居所が悪かったのだ。

唯一手元に残した盤(だって席を蹴って帰る前に、何故かサインを貰っちゃったから)、『Earth Stories』(Atlantic、1996年)は、それでも時々聴いている。何しろ巧く、ブルージーなのである。しかし、決して偏愛の対象になることはない。枠を揺るがすことがないからだ。

最近の新譜情報を見てサイラスの存在を思い出した。そんなわけで、Youtubeでいくつか聴いてみたが、人は変わらない。

> Yardbird Suite(チャーリー・パーカー)(ピアノソロ)
> 何かのブルース(ピアノソロ)
> Live at the Litchfield Jazz Festival 2008(ピアノトリオ)


ジャック・デリダ『死を与える』 他者とは、応答とは

2011-01-15 13:50:12 | 思想・文学

バンコク行きの機内で、ジャック・デリダ『死を与える』(ちくま学芸文庫、原著1999年)を読む。

『創世記』において、アブラハムは神からの声により、息子のイサクを生贄として殺そうとする、死を贈与しようとする。理由を誰に告げることもなく、余りの理不尽さに苦しみながら。デリダが覗き、こじ開け、理不尽な声に応答してさらなる声を共鳴させるのは、この意味不明なブラックホールである。

他者と神の声、自身にのみ響く声を共有してはならない。これは他者への応答(response)と対をなす責任(responsibility)ではありえないし、神は他者ではない。この矛盾について、デリダは、責任の内奥には体内化された<秘儀>があるのだとする。すなわち、悔悛や犠牲や救済はこの非論理の矛盾から歴史として溢れ出ており、他者への裏切りと切り離せない。決して双方向ではない、根本的に非対称なキリスト教世界に関する洞察である。そして、その他者なる存在について、デリダの意識は無数の分子(ドゥルーズ/ガタリ)となって世界に浸透を図る。えぐるような浸透である。

「一言で言うならば、倫理は義務の名において犠牲にされなければならない。倫理的義務を、義務に基づいて、尊敬しないことが義務なのだ。ひとは倫理的に責任を持って振る舞うだけではなく、非倫理的で無責任にも振る舞わなければならない。そしてそれは義務の名において、無限の義務、絶対的な義務の名においてなのだ。(略) この名は、この場合まったく他なるものとしての神の名、神の名なき名にほかならない。」

「私は他の者を犠牲にすることなく、もう一方の者(あるいは<一者>)すなわち他者に応えることはできない。私が一方の者(すなわち他者)の前で責任を取るためには、他のすべての他者たち、倫理や政治の普遍性の前での責任をおろそかにしなければならない。そして私はこの犠牲をけっして正当化することはできず、そのことについてつねに沈黙していなければならないだろう。」

「あなたが何年ものあいだ毎日のように養っている一匹の猫のために世界のすべての猫たちを犠牲にすることをいったいどのように正当化できるだろう。あらゆる瞬間に他の猫たちが、そして他の人間たちが飢え死にしているというのに。」

さまざまな世界で呟きたいこの<他者>論は、例えば、「何千万もの子供(倫理や人権についての言説が異なる隣人たち)」、あるいは、無数の他者に向けられている。そして、他者の認識、他者への応答、そしてその根本矛盾というブラックホールに気付かぬ者たちに向けられている。これは宗教論であると同時に、現代戦争論でも現代政治論でもメディア論でもありうるものだ。

「・・・まったく他なるものとしての神は、何であれ他なるものがあるところにはどこにでもいるということである。そして私たちのひとりひとりと同じように、他者のひとりひとり、あらゆる他者はその絶対的な特異性において無限に異なるものである。近寄りがたく、孤独で、超越的で、非顕在的で、私の自我に対して根源的に現前しないような絶対的な特異性において無限に異なるものなのだ」

アブラハム「何も言おうとしないことを許してください・・・」、私とは他者とは何か、許しとは何か。この深淵を覗き込まない限り、世界は決して別の世界にはならない。

●参照 他者・・・
徐京植『ディアスポラ紀行』
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(中)
柄谷行人『探究Ⅰ』
柄谷行人『倫理21』 他者の認識、世界の認識、括弧、責任
高橋哲哉『戦後責任論』
戦争被害と相容れない国際政治